空間における「音の運動」を考える
──「evala 現われる場 消滅する像」は、2005年以来初めて、ICC 5階展示室のほぼすべてをひとつの企画展で使用したプログラムです。この大規模な展示プランを実現するにあたり、意識した点はありますか。
evala 目で見る作品というのは、一度展示室で見て、振り返ったらもうそれは見えず、隣の部屋に行けば次の世界に移りますよね。でも僕の表現は音を使用するので、部屋が分かれていても音が物理的に干渉しあってしまいます。そこが最初の課題となり、音の関係性、遮音性を考えながら、会場全域を作曲するかのように展示構成のプランを練っていきました。
──来場者がギャラリーBに入って最初に体験する作品は《Sprout “fizz”》(2024)ですが、これは作品のあいだを歩きながら音を体感できるもので、これから各展示室で体験する作品への導入のようにも感じられます。ここに入り、evalaさんの表現世界に一度チューニングされることで、連続的に作品世界を体験していくような感覚です。
evala この作品は旧Bunkamura Studioのために昨年3月に制作したものを、大幅に発展させたシリーズ最新作です。Sproutは「芽吹く」という意味の言葉で、そのなかには「Sp out」というスピーカー出力の略語も隠れているのですが、ケーブルが植物のように地面や壁を這い、そこに置かれた大量の小さなスピーカーそれぞれから独立して音を出しています。音が芽吹き、色々な場所に花粉や粘菌が飛んでいくように広がるイメージで制作しました。実際に、ここで使用している音のフラグメンツをほかの部屋の作品にも埋め込むことで、展示会場全体がつながるような仕組みとなっているのですが、それは音にしかできないインスタレーションの方法だと思っています。

撮影: 山口雄太郎
──この作品の音は、ほとんどがデジタルノイズからできていると伺いました。しかし実際には、虫の羽音や木のさざめきのような自然音に錯覚する瞬間も数多くあり、展示室であるにもかかわらず、まるで周辺の空気が震えるような感覚がありました。
evala ノイズからできているのに、人工なのか自然なのかがわからない、曖昧な環境を目指しました。その際に重要なのは、音源をそれぞれの単体ではなく、運動として考えることです。例えば「ザー」というホワイトノイズをただ聴いていると文字通りノイズでしかありませんが、それが上から降ってきたり、横から流れて波打ったりすると、滝のように感じたり、海に浸かっているように感じます。しかしそれを録音するとまた「ザー」というノイズでしかなくなる。音源をつくることと音響空間をつくることの違いがそこにあるのです。
──音の運動や無音状態と有音状態とのコントラストなども含めたものが「空間的作曲」と言えるのですね。展示内容はもちろん、「現われる場 消滅する像」というタイトルも、evalaさんの創作姿勢を象徴的に表しているようです。
evala 例えば、鹿(しし)おどしってありますよね。ちょろちょろと水が流れて、水が溜まると「カン」と音が鳴る。音をつくるとなると、その鳴る瞬間の「カ」というところばかりを考えがちですが、その「カン」のあとに響く「ン(…)」の部分。山々に響いていくようなあの音の運動、あの残響を味わいたいから、いまでも庭園などに鹿おどしがあるのかもしれない。僕がサウンド・アートをつくるうえで大事にしているのが、まさにそのような運動や残響の部分、ひいては空間の響きなのです。
音の出来事を時間軸に構成した音源をどうつくるかだけでなく、それが空間のなかでどう運動していくか。その人工的な操作を「空間的作曲」と言っています。空気の振動とそこで生まれる体験を作品として考えているので、サイトスペシフィックにならざるを得ないのです。
そういった空間的作曲によるサイトスペシフィックな作品のアンケートでおもしろいのが、視覚的な感想が多いことです。目には見えない高密度な音によって、イマジネーションが創発される。そしてそのイマジネーションは個々別々で一人として同じものがないのが興味深い。イメージが提示されているのでなく、イマジネーションが引き出されていく。それが「See by Your Ears」の「耳で視る」ということかもしれないし、展覧会タイトル「現われる場 消滅する像」とは、それを本展キュレーターの畠中さんが言い換えて名付けてくれたものです。
畠中 evalaさんの作品は「耳で視る」をテーマにしていますが、いっぽうでサウンド・アートにおいては「音を視る」というような側面があります。美術史的に言えば、カンディンスキーもそうですが、多くのヴィジュアルアーティストが音の視覚化を試みてきました。つまり、ある作家が音を解釈してヴィジュアライズし、イメージとして固定化されたものを鑑賞者が見ることが多いわけですが、evalaさんの「耳で視る」作品では、その「答え」が用意されているわけではありません。
例えば今回の出展作品に《Embryo》(2024)というものがありますが、あれは映像信号も用いてはいるものの、いわゆる一般的な映像を使用しているわけではありません。光であり、影であり、物質的なものが生み出す影のようなものが組みあわさって、映像的に見える。それが音と交錯することで、鑑賞者それぞれの内面に生まれるイメージを視るような作品です。今回の展覧会において視覚的な要素はとても限定的で、ディスプレイやプロジェクターで見る映像とは異なるアプローチを行っています。

撮影: 山口雄太郎