「耳で視る」音響空間はいかにして生まれるのか。evala・畠中実インタビュー【4/4ページ】

《4分33秒》以降の表現をとらえ直す

──畠中さんはこれまでにもICCでサウンド・アートに関する展示を手がけられてきましたが、evalaさんの表現をサウンド・アート史の文脈でどのように位置付けられていますか。

畠中 サウンド・アートの展覧会は、ICCでは2000年に行った「サウンド・アート 音というメディア」展が最初ですが、それ以前からサウンドはメディア・アートにおいて重要な要素のひとつだと考えていました。サウンド・アートの起源を考えたときに、そのひとつの契機に位置付けられるのが、ジョン・ケージの《4分33秒》(1952)だと思います。サウンド・アートについて、私は《4分33秒》以降としての「聴くこと」を主題にしたアートと表現したりもします。たんに「音を聞く」ということではなく、「聴くこと」について意識させられることがサウンド・アートの中心だということです。ケージは、それがテクノロジーの力を借りることでより突き詰められると考えたのです。ですから、サウンド・アートというのは《4分33秒》以降における、「聴くこと」と「テクノロジー」のアートだととらえています。

 そう考えたときに、無響室は《4分33秒》が生まれるきっかけになった部屋であり、音響の特性のない、空間における特性がゼロな音環境によって、そこで自在に音をつくり込むことができ、聴覚体験を変化させることができる特殊な部屋でもあります(*)。evalaさんは、そこで鈴木昭男さんをモチーフにした《大きな耳をもったキツネ》という作品を手がけていたり、《Sprout》のような作品ではノイズを用いて架空の環境をつくるなど、作品ごとにまったく異なるコンセプトでサウンド・アートの表現に取り組んでいます。そして《ebb tide》では、たんに音をヴィジュアライズすることがサウンド・アートではないことを前提に、「耳で視る」ことに対するひとつの回答を導き出しているようにも感じられました。

evala 美術においてニュートラルな展示空間としてのホワイト・キューブに値するものが、サウンドでは無響室になります。これが美術館にあるというのは大変貴重なことで、メディア・アートにおいてサウンドを重要な要素とされる、ICCや畠中さんの志向を表すものだと思います。

 2013年にこの無響室で徹底的に音だけに向きあってつくりあげた《大きな耳をもったキツネ》以降、美術館のホワイト・キューブでのブラックライト・シリーズや、劇場での真っ暗闇の映画作品、あるいは庭園や公園での目に見えないパブリック・アートなど、様々なコンセプトや形態で「耳で視る」ことを拡張してきました。今回の展覧会は、それらの経験をもとにした現時点の集大成的な個展になります。いずれの作品も、美術にはないような、視覚要素が極限まで削ぎ落とされた暗闇が特徴ですが、この「暗闇」という漢字には「音」があふれていることに気づきます。世界に言葉が生まれる前に、音楽があり、音楽の前に音がありました。目に見えないものを感じることから、様々な文化が生まれてきました。いま、現代のテクノロジーとともに、目に見えない「音」から創作することで見出せる新しい地平があると僕は考えています。

*──ジョン・ケージの作品《4分33秒》は、3楽章で4分33秒という演奏時間と「Tacet(休止)」という言葉のみが楽譜で指示されている。つまり、演奏者は楽器を演奏することはなく、「意図しない音が起きている状態」を作品とする。制作のきっかけとなったのが、1951年に訪れたハーバード大学の無響室だと言われている。無音環境に身を置こうとした彼は、高い音と低い音のふたつの音を聞いた。高い音は神経系が働く音で、低い音は血液が流れる音だとエンジニアに聞かされ、完全な無音状態をつくることが不可能であることを知ったことが、《4分33秒》が生まれるきっかけのひとつとなった。

編集部

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