また、《グレート・マザー 晴美》は、思春期の娘と母の関係性をテーマとした作品だ。罵りあうふたりの背景にあるテレビモニターには、依存的で支配的な母娘の姿が映る。さらに父も登場する。筆者の目には夫婦間も親子間も過干渉に映ったが、かつてのテレビドラマで見かける典型的なシーンにも思える。

提供=東京国立近代美術館
さらに《清子の場合》では、女性が芸術家として活動することの困難さを描く。結婚を最良の選択とする両親にとがめられ、気のすすまない結婚をし、なんとか絵画制作を続けようとする清子。しかし家事や育児に追われ、さらに姑から2人目の子供を望まれる。無理解な夫に、自分は生きていくために描かずにはいられないのだと、なぜ、女性は自分を捨てて母親にならなければいけないのかと訴えるが……。
なかでも、母から「世に認められていないのは才能がないからだ」と追い詰められるシーンでは、清子が、家父長制と資本主義社会の価値基準により二重に拘束され、孤立させられていると筆者は感じた。モニターのなかで、創作の時間がこまぎれになることと、「私」が壊れていくことが象徴的に表現される。また、《シャドウ パート1》《清子の場合》には、息子の結婚観を心理的に操作しようとする母が登場し、3作品が輪廻するようでもある。思えばバブル期の80年代、筆者自身も社会的な刷り込みに無自覚なところがあった。また、個人的な解釈ではあるが、「家」に献身的なこの母たちが高齢者になる頃には、介護にまつわる問題が発生しているのではないかとも想像する。

提供=東京国立近代美術館