誰が何を代表しているのか?
第61回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展において、国別パビリオンは依然として「国家を代表する場」として配置、リスト化されている(今回の参加国数は99、前回比11増)。しかし、国家が複数の立場や力学のなかで揺らぐ現在、この枠組みはもはや安定した帰属の単位とは言い難い。また、代表作家やキュレーターの出自や活動拠点と、代表する国が不一致でも成立するケースが増えているいっぽうで、特定の館では政治性をめぐる問題が前景化し、国にとって有益な属性や無害な作家が露骨に選ばれているようにも見える。
さらに今年は、ロシア館やイスラエル館の再開をめぐって、国家が芸術を通じて自らの政治的立場を正当化しうる「アートウォッシュ」の問題も明確になっている。その状況に対するビエンナーレ主催者の対応は、「法」のもとに守るべき原則(自由や開放性)を掲げながらも、それが具体的な政治的状況においてどのように機能するのかは宙吊りにされたままである(*1)。130年の歴史のなかで政治性や社会性と不可分に歩んできたこの枠組みにおいて、美術に寄与する建前は仮設的にとりつくろいながら、結果的に専門家が担ってきた各賞の授与制度の解体へと至った(*2)。
同時に、コラテラル・イベント(今回31、前回比1増)としての台湾館が今年も賑わい、ウクライナのピンチュク(Pinchuk)財団による連帯展は続き、米国を拠点とするパレスチナ美術館によるガザ関連の展示も開かれている。さらに、ヴェネチア市内でビエンナーレと同時開催される展覧会にも足を運ぶと、枠組みの外へと押し出され、別の拠り所や媒介を通じて展開される実践も見出された。
本稿では、こうした動向を見渡しながら、今回のビエンナーレにおいて何が可視化され、何が見えにくくなっているのかを検討する。

*1──5月6日に行われた記者発表会で、ビエンナーレ財団のブッタフオーコ理事長は、今年のロシア館参加について、メローニ首相が反対の立場を表明しつつもビエンナーレの自律性を認める趣旨の発言について言及し、特定の国家に限定せず、戦争当事国(ロシアやイスラエルを含む)を理由とする参加排除の議論を、「法」、すなわち恣意的判断ではなく原則に基づく制度運営の観点から、ビエンナーレの原則(自律性・自由・開放性)に照らして相対化した。ここでは、パビリオンの参加は、国家や立場による選別ではなく、制度的原則に基づく普遍的運営を意味している(理事長の演説は、次の映像リンクの44分から聞くことができる:https://www.youtube.com/watch?v=up4jcVLr5Zo)。
*2──例えば、イスラエルのように、国際法との関係が継続的に争われている状況にありながらも国家として承認され続けている事例に見られるように、国家の正当性は固定されたものではなく、制度的・政治的過程のなかで維持されているにすぎない。また、イスラエル館をめぐっては、アーティスト側が法的措置の可能性を示唆し、それが審査体制に影響を及ぼしたことが報じられるいっぽうで、同時にボイコットへの応答として自らの立場や正当性を言語化する動きも見られる。このように、国家の代表や正当性をめぐる問題は、美術制度の内部において法的であると同時に言説的な次元においても処理されている。報道例:https://www.artforum.com/news/israels-artist-threatened-legal-action-venice-biennale-1234750022/;https://www.artnews.com/art-news/news/israel-venice-biennale-artist-responds-cultural-boycott-1234780053/




























