戦後、「銃剣とブルドーザー」に立ち向かう
沖縄本島の北西沖に位置する伊江島。阿波根昌鴻は沖縄本島の上本部村(現・本部村)で1901年に生まれ、22歳で伊江島に渡り結婚する。息子が誕生後、農業移民として25年にキューバ、29年にペルーに渡り、34年に帰国。川平地区で雑貨店経営の傍ら、農民学校の開校をめざして真謝(まじゃ)区に大きな土地を購入していた。
第二次世界大戦末期の1945年春、沖縄に米軍が上陸。激しい地上戦の末、沖縄が軍事占領される。米軍は軍事基地の拡大を目指し、53年、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強制的な土地接収を開始した。55年には伊江島に約300名の武装兵が上陸。立ち退きを聞き入れなかった13戸の家屋がブルドーザーで破壊され、農地が焼き払われ、81戸の農家の耕作地が米軍の射爆用地として囲い込まれるという事態となった。
さらに米軍が琉球政府に対して、事実と異なる報告をしていることに気づいた阿波根はカメラを那覇で購入し、米軍の暴力や軍事演習による被害などを記録し始めた。その理由を小原は「当時、カメラを持っているのは米軍だけ。離島にジャーナリストは来てくれない、となれば自分で記録するしかない。あったことがなかったことにならないように、非暴力でどう立ち向かうか考えた結果、抵抗のツールとしてカメラを持った」と説明する。住民たちは幕舎(テント)生活を強いられ、餓死者も出た。追いつめられた真謝区の人々は、「乞食行進」と称して本島を歩き、カンパを募りながら自分たちの窮状を訴えた。この活動は次第に全国的に知られ、本島での島ぐるみ土地闘争の導火線となる。
同展のタイトルは、この1955〜66年の沖縄・伊江島土地闘争を記録した写真集『人間の住んでいる島』から付けられた。82年、県外から沖縄に通い続けていた写真家・張ヶ谷弘司らが、阿波根の写真をプリントして写真集を編集、阿波根が著作発行した。今回、東京工芸大学では、張ヶ谷が保存していたプリントを収蔵すると同時に、残されたモノクロネガフィルム3200枚をデジタル化し、新たに銀塩プリントを制作。残されたフィルムには『人間の住んでいる島』には掲載されていない、住民や日常のスナップが数多く含まれている。会場では、こうした人々の穏やかなスナップと闘争の写真が向かいあうように展示されている。
なお、今年の2月23日〜5月6日には、原爆の図 丸木美術館で、同じく小原がキュレーターを務めた「阿波根昌鴻 写真と抵抗、そして島の人々」が開催。この時もトークイベントが開かれ、写真家の比嘉豊光や小原のほかに、伊江島から玉城睦子(伊江村立西小学校元教頭)が参加した。比嘉は、阿波根昌鴻展を伊江島と本島で開催した実行委員会の中心メンバーである。この展覧会は、今年の11月5日〜12月21日、立命館大学国際平和ミュージアムの1階にある中野記念ホールにも巡回した。各地でバトンがつながってきている。