暗闇の中にわずかな光が差し、次第に沖縄のガマ(自然壕)で遺骨を探して土を掘る男が見えてくる。「ガマフヤー(自然壕を掘る人)」を自称する具志堅隆松、1954年生まれ、70歳。ボーイスカウトのリーダーを務めた28歳のときに遺骨収集に参加したことをきっかけとして、ボランティアで遺骨収集を続けている。これまで400柱を掘り出したが、激戦地だった沖縄本島南部を中心にいまも3000柱近くの遺骨が眠っているとされる。
その姿を追う奥間勝也監督は1984年生まれ。自らも大叔母(祖母の妹)を沖縄戦で亡くした戦没者遺族でもあり、その遺骨も見つかっていない。奥間は会ったことのない、触れたことのない大叔母の生と死に実感が持てず、「会ったことのない者の死を悼むことができるのか?」という問いを抱えている。この映画では、のべ5年をかけて具志堅の行動を記録した時間に、自らの問いと向き合う奥間監督の時間が編み込まれ、やがて複数の人々の「声」へと広がっていく。奥間監督に映画制作を通じて、問いはどのように変化したのかを聞いた。
「見つかる/見つからない」よりも、より近づくことが慰霊となる
──まず、具志堅隆松さんを撮ろうと思った動機を教えていただけますか?
遺骨収集をされているかたは何人かいらっしゃるのですが、調べるなかで具志堅さんをもっと知りたいと思ったからです。具志堅さんについての書籍や報道など文字情報は多々あるのですが、具志堅さんがどんな場所でどんなふうにどんな心持ちで掘っているのか、映像でないと表せない空間や時間を撮りたいと思いました。お会いしていくと、頑固なまでに物事を追求する面とか、ときに口籠るように話す面とか、自分と似たようなところもあって。確固たる信念の人というみんなのイメージがあり、実際にそうではあるのですが、揺れている部分にも惹かれました。
──確かに、「ただ黙々と掘っていると、何やってんだかわからなくなる時がある」という迷いも口にされていましたね。戦後80年近くにもなり、そう簡単に遺骨は見つからない。茶碗のかけらなど当時の痕跡が見つかると、もっと下まで掘れば出会えるかもしれないと気力を取り戻して掘り進めていました。「いないんだったらいいけど、いるんだったら早く出てこいよー」と語りかけながら。そんな途方もなさなのに「辞めたいと思ったことはない」と言う具志堅さんの逡巡が切実でした。
そうですね。見つからない時間も大切に残したかったんです。具志堅さんが「遺骨が見つからなくても、より近づくということが慰霊という行為になる。それは観念的慰霊ではなく、行動的な慰霊としてやっている」と語っていますよね。自分の頭だけじゃなくて、手足を使うとか人に会うとか、行動することで接近できていくんだと。
──だからこそ見つかったときには、哀しい事実ではあるんだけど安堵や嬉しさもある。遺骨の欠片や装備品などから、こちらに幼児とお母さん、お年寄りがいて、こちらに兵隊がいたんだねなど、ガマに潜んでいた最期の姿を推察する具志堅さんにも驚きました。
僕もなぜわかるのか不思議で、初期の頃は細かく尋ねていたんですが、次は多分こういうものが出てくるよという推測がことごとく当たるので、具志堅さんが何をするのかを黙って見つめた方がいいなと思うようになりました。具志堅さんには蓄積した知識や経験があるので、同じ風景を見ても違って見えているんだなと。取材前は具志堅さんはひとりきりで掘っていると思っていたんですが、誰かに見られているというか、死者や自然との対話が起こっている感じがして。具志堅さんのワンショットを撮っているのですが、その場所も主人公のひとりとしてツーショット、スリーショットを撮る感覚で撮るようになりましたね。
出会ったことのない人の死を悼むことができるのか?
──いっぽう、家族や親戚への聞き取りなど、大叔母の正子さんについても調べていったのですね。
具志堅さんと会うまで、じつは思い返すことがあまりなかったんです。慰霊の日に祖母がテレビ中継を見ていたりするんですが、家族で大叔母について語ることもなくて。沖縄では学校で平和教育もありますし、勉強しているはずなんだけど、それが自分のものとして語りきれないような感覚がありました。僕の世代には、熱心にコミットしている人と同じくらいこういう感覚を持つ人もいると思います。だから、映画をつくるなら知った風にせず、そういう自分をまず認めるところから出発した方がいいなと思っていました。
──正子さんが子供の頃の家族写真と成人の頃の2枚の写真を持って、老人ホームにいる正子さんの妹・直子さんに記憶を確かめに行きましたね。正子さんの写真を、直子さんが顔に寄せる仕草から写真の根源的な力も感じました。
直子おばさんには認知症があったので、母と「何も思い出せないかもしれないけど行くだけ行こう」と言っていたんです。最初はわからなかったけれど、話すうちにだんだんと思い出してきて、表情が変わっていきました。直子おばさんが感情的になるところをあまり目にしたことはなかったので、頭の中で蘇った記憶や感情があったんだろうと思います。それをカメラがとらえていたという事実は重いなと思いました。
──戦時中の話は聞けないけれども、その身体に記憶を有する方の生と死が、映画の中に編み込まれていて重層的に感じました。
直子おばさんはかつて私の実家に毎日のように遊びに来ていて、家族の一員のような感覚があったので、この人が死んだら自分のこととして悲しむ予感はあったんですね。そこから迂回して、遠い存在であった正子さんのことを考えるきっかけにもなるのではないかと思っていました。
──また、奥間さんは沖縄公文書館に米軍のアーカイヴ映像を見に行きますね。正子さんが写っている映像は残念ながらありませんでしたが、米軍がガマの中に向かって外から攻撃するモノクローム映像を見ていましたね。私たち鑑賞者は、具志堅さんがガマの中で掘る様子を通じて、その穴の中をのぞくような視点になります。
そうです。沖縄公文書館のアーカイヴ映像は、すべて米軍が撮影した映像なので、ガマの内側にいた人の姿は映っていないんです。だから、アメリカのフィルムに支配的な映像イメージとは逆の視点を、自分の手でつくり出したいと思いました。主要なメディアではあのアーカイヴ映像ばかり使われるので、沖縄戦を記憶するとき、沖縄の人たちでさえもそれに規定されてしまっている気がして。そのためこの映画では、その穴の数メートル先に誰かいたよねと想像させる視点を意識しました。
──「見ること」を取り返すような気持ちでしょうか。骨片や食器片と対話するような具志堅さんの語りから、ガマの中にいた人々の画が浮かびあがるような気がしました。もちろん見る人によってその像は異なると思いますが。
そうだと嬉しいです。じつは、映画の編集作業の時期に、東京オペラシティ アートギャラリーで沖縄の写真家・石川真生さんの個展「私に何ができるか」(2023年10月13日〜12月24日)で、《大琉球写真絵巻》の展示を初めて見て。明治以降の写真表象がない時代に、あったであろう歴史的事象をフィクションを使って取り戻している。教科書的な文字的な意味では知っているけれど、絵とするとこうだったかもねというイメージを、自分たちで演じることで更新しているわけなんですね。嬉しくて泣きそうになっていたところに同じく沖縄のアーティスト・山城知佳子さんがやってきて「すごいねー」って。見えないものをどうやってつくれるのか、試行錯誤していたので本当に励まされました。
──ああ、そうか。石川さんの写真がより深くわかった気がします。米軍のフィルムには沖縄の生活も写されていますが、外側から「見られる」視点で撮られたものですね。具志堅さんが掘り出すものたちは、内側から「見返す」視点として表れたようにも感じますね。
「遺骨土砂問題」から見えた対話の重要さ
──また、沖縄防衛局では、辺野古新基地建設のための埋め立てに使う土砂を、沖縄本島南部から調達する計画が進められ、2021年に具志堅さんは「人道上の問題」として反対し、沖縄県庁前で6日間ハンガーストライキを行いました。全国的にも報道されました。奥間さんはそばで見ていてどうでしたか?
最初に森が崩されたときすぐに電話がかかってきて、どうしたら止められるかと一緒に考えたりもしました。ハンストは、具志堅さん自身迷っていたけど、動かなきゃっていう気持ちが強かったようです。僕はそれが計画中止に結びつくだろうかと半ば懐疑的だったんですが、たくさんの人が応援の声をかけてきて、自分がいかに浅はかだったかと思い知りました。悩みながらも自分が嫌だと思うことは声を上げることが大切だと。それがちゃんと届く人に届いて、政策を議論するところまで間近で経験させていただいたので。
──玉城デニー知事が呼びかけに応えて県庁から出てきましたね。その後、人道的配慮を呼び掛ける措置命令が出されますが、翌年には採掘行為の届け出が受理されてしまいました。
そうですね。ただ、顔と顔をつき合わせて、何かを聞こうとしている意思は確認できたし、血の通ったダイナミズムはありました。いっぽうで、東京の議員会館で行われた説明会では、役人たちは決まった答弁の繰り返しで、コミュニケーションがまったくなかった。だから具志堅さんの呼びかけから始まった、みんなで問題を共有する経験をひとつひとつ積み上げることで現状が変わるかもしれない、そんな希望も感じました。
ひとりから多くの人へ。祈りを込めて名前を読む
──糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念公園には、敵味方を問わず24万人にのぼる名前が刻まれた碑が建っています。慰霊の日の6月23日に向けて「沖縄『平和の礎』名簿を読み上げる集い」のシーンでは、具志堅さんと奥間さんの2人で始まった映画の物語が、多くの人に広がっていくようでした。
1人で、集団で、家族でなどいろいろなかたちで読み上げる姿を撮りました。全校生徒で分担して読み上げる中学校もあり、なかにはある意味やらされていると感じる生徒もいるかもしれない。かつての僕みたいなのがいてもいいなと。朝鮮半島や台湾出身者の名前をそれぞれのコミュニティの方たちが読む、米兵の名前を読むところなども映画に入れたいと思いました。
──米軍戦没者には、イタリア系などの移民の名前が多いという指摘がありましたね。
元米兵の政治学者なんですが、読み上げという行動的慰霊をしたことによって気づいたんですよ。それを聞いて、テオ・アンゲロプロス監督の映画『エレニの旅』を思い出しました。エレニの夫はギリシャ難民としてアメリカに渡り、市民権を得て家族を呼ぶために志願して兵士になります。戦死する前に出した手紙が数年後にエレニに届くんですけど、手紙に「ケラマ島」「オキナワは地獄だ」という記述があります。その後、沖縄で戦死したことになっている。
激戦地の最前線で戦う兵士たちが、国家の中でどのような位置に置かれている人たちなのか、読み上げの名前からもその一端が垣間見えたように感じました。
──学校や部屋など様々な場所で読み上げを撮影している間はどう感じていましたか?
すべて三脚を立てて撮ったのですが、亡くなった方たちに見守られながら読み上げをしているような妄想にも駆られました。自分が読んでいるのを誰かが見ている、自分の共同体で近所の人が見ている。いろんなシチュエーションがある厚みが集団的記憶をつくるのではないかと。散発的にいろいろな人がいろいろな形で行うことが行動的慰霊だと勇気づけられましたね。
──ちなみにこの映画には、いろいろな昆虫が登場し、蝶も出てきます。蝶は亡くなった人が帰ってくるモチーフとして描かれることもありますね。また、具志堅さんは自然と一体化しているようにも見えました。
上空をヘリコプターが飛ぶんですけど、同じぐらい鳥の声や風の音も聴こえるんですよ。映画には入れてないんですが、具志堅さんが遺骨土砂問題で東京に抗議に行ったとき、国会議事堂の前で上を向いて何かをじっと見つめていたんです。僕はカメラの画面を見ているから何を見ているかわからなくて「意を決しているようないい顔だな」と撮り続けていました。そしたら「イチョウの木に鳥がいるね」って。全然違うことを考えていて拍子抜けしました(笑)。具志堅さんは自然の空間に身を置くことが好きで、具志堅さんにとっても必要なことなのかなと思うんですね。もちろん遺骨を早く掘り出してあげたいという思いが強いんですけど、人を救っているんだけど実は自分も救っているんじゃないかと。助けること自体が具志堅さんのエネルギーを引き出して自分も助けてると。撮影を通じてそんなことを妄想して、具志堅さんを祝福したいという気持ちになりました。
奥間監督は「映画を撮ることによって、自分個人の視点から沖縄について考え、記憶を継承することが多少なりともできた気がします」と語る。この映画では、「見る」「見られる」の相互関係が、人と人、人と自然、生者と死者の救済の物語に変化する。具志堅さんが「最大の慰霊は二度と戦争をしないこと」だと語った言葉を噛み締め、自分はどんな行動的慰霊を行えるかを考えたい。