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沖縄復帰50周年の終わりに。「離れた場所から語ること」をミヤギフトシに聞く

自身のセクシュアリティや生まれ故郷である沖縄の政治的・社会的問題を交錯させ、映像、写真などを組み合わせたインスタレーションによって詩的な物語を立ち上げてきたアーティスト・ミヤギフトシ。沖縄復帰50周年だった2022年が終わるにあたり、ミヤギに沖縄における当事者性や距離といかに向き合っているのかを聞いた。沖縄を語るときにある「距離」を考える契機にしてもらえれば幸いだ。

聞き手・構成=安原真広(ウェブ版「美術手帖」編集部)

ミヤギフトシ

──2022年、沖縄復帰50周年という節目が終わろうとしています。ミヤギさんはこの節目をどのようにとらえて過ごしましたか。

 1981年生まれなので、復帰当時のことを語れるわけではないのですが、コロナ禍​​で2年以上帰郷していないタイミングで沖縄が復帰50周年を迎えました。ここ数年は沖縄を舞台にした作品制作の予定もなくて行く理由を見つけられず、自分が沖縄から遠ざかっていくような感じがしていました。

 それで、50周年となる5月15日の週末、特に目的も定めず那覇に2泊滞在したんです。どんな感じなんだろうかと思っていましたが、沖縄の時間はいつもどおり流れていました。色々な式典などもあったようですが、そういうものに足を運ぶこともなく、普通に過ごして。変わらない沖縄の日常がありました。

──沖縄における日常というものを考えたとき、アメリカという存在が他県に比べても極めて身近にあるという印象を受けます。ミヤギさんの作品に織り込まれているアメリカへの憧れと不信が入り交じるようなアンビバレントな感情は、そういった日常のなかで育まれたものなのでしょうか。

 私は本屋もないし映画館もない、小さな離島で生まれ育ちました。だから、私にとってのアメリカへの憧れというのは、島の雑貨屋で売っている少ない洋楽のCDや、レンタルビデオ屋で借りる洋画などで培われたものです。本島に行けば米軍基地がありアメリカがありますが、島に基地はなかったので、想像のなかで育まれた、アメリカに対するちょっといびつな憧れを持っていました。

 高校進学を機に那覇でひとり暮らしをはじめました。那覇は沖縄でいちばんの都会ですし、やはり軍関係者を目にすることも多いので、威圧感含め、良くも悪くもアメリカの存在は島にいた頃よりもずっと近かった。

 もうひとつ、高校の修学旅行として沖縄県人会の伝手をたどってハワイに2週間ほど行くことになったことも、経験として大きかったです。ハワイでアメリカの文化にじかに触れて、空想のなかで憧れていたアメリカにもっと近づきたいと思うようになりました。

 その後、短期交換留学というかたちでワシントンD.C.でホームステイもしました。そこから帰ってきても、やはりアメリカに行きたいという願望は変わらなくて。高校卒業後に外語専門学校に通い、アメリカの大学へ編入しました。

──渡米したのち、ミヤギさんは作品制作を始めます。ご自身のセクシュアリティをカミングアウトするような写真シリーズ「Strangers」(2005-2006)などが代表的ですが、いっぽうで沖縄というご自身のルーツはどのように作品に取り入れるようになったのでしょうか。

 自身のセクシュアリティとともに、自分にとってもう一つのアイデンティティの軸として存在した沖縄のことを少しずつ作品に織り込むようになっていったのですが、アメリカでは沖縄の米軍基地問題を知らない人も多くて。大学を卒業するころには、どこ出身かと問われたときに、日本ではなく「沖縄」と答えるようになっていました。

 写真作品を中心に制作していたころはあまり意識していなかったのですが、段々と立体作品やインスタレーションなどを手がけるようになったとき、自分のパーソナルな記憶だったり、沖縄での経験が入り込むようになりました。

 当時から「沖縄のことを離れた場所でどのように語るのか」という問いは持っていて、それはいまも変わっていません。米軍基地のことや沖縄の置かれた政治的な立場を作品に組み込み、現地で見せるということが、どれだけ上手くできていたのかはわかりません。ただ、自分なりの語りかたを模索することで、沖縄とのつながりが見えてきたようにも感じていました。

ミヤギフトシ Stranger #6 (Strangersより) 2005 Cプリント

──憧れていたアメリカに実際に渡ってみて、憧れに叶うものと出会えたり、あるいは幻滅したりといったことがあったのでしょうか。

 もっと大きな都会に行けば自由になれる、といった思いを当時持っていたことは事実です。でも、もちろんそんなことは全然なくて。カミングアウトさえ、ちゃんとはできていなかった。

 「Strangers」をニューヨークで制作し始めたころは、クィア・アーティストの友達もいないし、そのコミュニティがどこにあるのかすら知らなくて、クィアの人々が実際にどんな暮らしをしているのかわからなかったんです。だから「Strangers」の制作は、自分にとってもコミュニティの入口を探すという側面がありました。彼ら/彼女らがどんな暮らしをしているのか知りたい、という憧れにも似た気持ちです。

 結局当時から、誰かとつながり、その人との関係性の構築を模索し、でも失敗し続けて、いまにいたっているような気がします。そして、それが完全に悪いことではないという感覚もある。ニューヨークで初めての個展をしたとき、そのギャラリーのオーナーから言われた言葉がいまでも印象に残っています。「ワーク・イン・プログレス」をもじって「君はアーティスト・イン・プログレス」なのかなって。いい言葉だなと思いました。それをいまでも続けているのかもしれません。

ミヤギフトシ Stranger #35 (Strangersより) 2006 Cプリント

──模索し、失敗し続けること。そしてつねに過程であり続けるというのは、ミヤギさんの制作の姿勢を端的に言い表しているような言葉ですね。ライフワーク「American Boyfriend」シリーズも、沖縄やアメリカといったテーマに対する、ミヤギさんのそういった姿勢がよく現れているように感じられます。

 それまでも、断片的に沖縄とアメリカの関係性をテーマとした作品をつくってはいたのですが、「American Boyfriend」というナラティヴを主軸とした作品群を作り始めたのは2012年のことです。沖縄でリサーチをしたことの記録、あるいは関連する映画や音楽、YouTube動画などを見て、聴いて感じたことなどをブログに書くことから始めました。沖縄の土地を見て回れば、そこにまつわる自分の体験を思い出し、それを書き留めたりして。そうすると段々とフィクションが立ち上がってくるように感じ、そこから《The Ocean View Resort》のような、私自身の語りによるフィクションを交えた映像作品にもつながっていきました。

ミヤギフトシ The Ocean View Resort 2013 シングルチャンネルヴィデオ、カラー、サウンド

──ミヤギさんはフィクショナルな作品を制作する際に、映像や写真といったメディウムを選択しているわけですが、いずれもそこには何かしらの被写体が必ず存在しますよね。そういったレンズの向こうに絶対的に存在する現実をフィクションに変換するとき、どのようなことを意識しているのでしょうか。

 少なくとも、経験を語る当事者本人が私の作品に出てくることはあまりなくて、自分で語ってみたり、演者を立てることが大半です。実際に話を聞いた方の声を使うことも制作中に試したりしたのですが、ドキュメンタリー的な見せ方よりは、これまでやってきたようにフィクションとして一回自分の中で消化してみるというか、あいだを空けたほうがいいのではないか、と。

──それは当事者性の持つ力や、意味の強さのようなものが気になるということでしょうか。

 どちらかといえば「American Boyfriend」ではひとつの物語世界をつくりたいという思いがありました。「American Boyfriend」という世界の中の物語を考えたとき、誰かの声をそのまま入れるよりも、存在したかもしれない誰かの声をフィクションとして提示したかった。《Flower Names》など、インタビュー映像を取り入れた例外もありますが。

「American Boyfriend: The Ocean View Resort」(Raum1F、東京、2013)、インスタレーションビュー

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