言葉とイメージが共存する、プロジェクトともいうべき写真
11月20日に実施されたトークイベント「阿波根昌鴻の記録と抵抗」の始まりに、写真家で多摩美術大学教授の港千尋は90年代の沖縄で最初に購入した一冊として『人間の住んでいる島』を紹介。同展で阿波根写真と出会い直すこととなった。「写真は、撮影されてプリントされて出版されて完結するものではなく、つねに見る人がいるかぎり、姿を変えつつ、新たな姿を現すもの。阿波根さんの写真は力強く生きている」と港。
阿波根昌鴻とはどんな人物だったのだろう。よく見ると複数の写真に阿波根の姿が写っている。じつは撮影者は阿波根だけではなく、土地闘争の同志たちも代わる代わる撮っていたのだ。阿波根は写真家と名乗ったことはない。「いまで言えば阿波根さんのプロジェクトであり、複数のアーティストで活動するコレクティブのような、集合的な主体としての阿波根写真」だと小原は考えている。
阿波根は、アメリカの『LIFE』誌を参考に、言葉と写真でどう伝えるか勉強したという。『人間の住んでいる島』は、写真だけでなく、地図や日誌・年表で構成されている。港は、「阿波根さんはまず言葉の人だったのではないかな。判型が大きめなのは、写真のなかにある多くの看板や陳情などの言葉を読めるようにするためではないか。食べ物も口に入れられない状況で、生死をかけて書いた言葉。一字一句に重みがあり、声に出して読むような文字が刻まれている写真だと思う」と、言葉とイメージの共存について指摘した。
小原も「『LIFE』は写真と言葉の組みあわせをデザインして見せているけれど、阿波根さんはその言葉を写真のなかに入れてしまった。つまり写真1枚ですべてを語ろうという『LIFE』の変奏版みたい」だと語る。
また、港が購入した『人間が住んでいる島』は函に入っており、函には琉歌が英語と両方で印刷されていたという。「阿波根の著作である岩波新書の『米軍と農民』にも歌がよく出てくるんですが、行進や陳情でも歌をつくって歌って歩いたと書かれている。写真をつくることと歌をつくることは別々のことではなかった気がする。言葉とイメージの共同作業のようなことがやはりあったのでは」と港。
小原も「乞食行進では体と言葉で、いわば自分たちをメディアにして島じゅうを歩いた。写真、看板、言葉、歌、座り込みなど、暴力以外のあらゆる方法で戦う。ありとあらゆるできることをやって、それが一丸となっていた頃の写真だ」と言う。
しかし比嘉は「阿波根さんの意図を、村人たちはそこまで知らないと思う」と異を唱えた。沖縄本島にも当時はカメラがほとんどなく記録がない。その意味でこれらの伊江島の記録を「沖縄写真の原点」としながらも、「十字架のこの写真はセット(アップ)されている。農作業の鍬、人々のスナップにある動物も演出されている」と見る。
それに対して小原は別の見方をする。「沖縄はつねに撮られる側にいて、政治的・経済的・軍事的に強い側がずっと表象してきた。そのカウンターとして、自分たちの映り方やどう発信するかを自分たちが主体となって決める、それが、比嘉さんが指摘した“演出”ということではないか」。