イメージの外へ──水俣をめぐる写真の現在
1956年、水俣病は公式に確認された。当初は貧しい僻村の「奇病」と蔑まれた病気の原因が、水俣市の化学工業メーカー、チッソの工場排水に含まれるメチル水銀によるものと認定されたのは、13年後の1968年のことである。いまなお続くこの問題には、漁民、患者や家族のみならず、医者や法律家、さらには写真家や作家、思想家たちが関わり、社会に大きなうねりを生み出してきた。
公式確認から70年の節目にあたる今年、水俣をめぐる展示や出版が各地で企画されている。当時運動に関わった人々の多くがすでに他界、あるいは高齢化するなかで、後続の世代や「外」から来た人々が、この記憶をどのように引き継ぐのかが問われている。いま、水俣をどのように語ることができるのか。本稿では、その問いに対する異なる応答として、2人の写真家による展示「塩田武史写真展 ~フィルムからひらく、人びとの物語(ストーリーズ)~」と「森田具海写真展 港の木 タイドプール」を取り上げる。
「塩田武史写真展 ~フィルムからひらく、人びとの物語(ストーリーズ)~」(熊本大学五高記念館)
水俣をめぐる写真表象としてまず想起されるのは、アメリカの写真家ユージン・スミスによる一連の作品だろう。とりわけ、胎児性患者の上村智子が母親に抱かれて入浴する姿を写した写真は、『ライフ』誌1972年6月2日号に大きく掲載され、水俣病を世界に知らしめた(*1)。

1971年、ユージンと妻のアイリーン・美緒子・スミスを水俣の患者宅へ案内したのが、写真家・塩田武史(1945〜2014)である。塩田は1967年、法政大学在学中に水俣病の存在を知り、70年に水俣に移住。以降、患者やその家族の生活を撮り続けた。よく知られる作品には、胎児性患者の半永一光がハトを抱えて笑顔を向ける写真や、公式確認の契機となった小児性患者の田中実子を撮影した写真がある。故郷の瀬戸内に重なる水俣の風土に惹かれ、実際に現地で生活し、患者やその家族と日々深く交流していたからこそ撮りえたこれらの写真は、当時の水俣病の現実を伝えるうえで重要な役割を果たした。
しかし塩田は晩年、劇症型患者の写真を多く世に出したことについて、「病気の印象を固定化してしまった」と語っている。写真は現実を記録する手段であるいっぽうで、ある現実の一部をフレームで切り取り、集約することで、それ以外の現実を見えづらくしてしまう側面がある。では、写真を「見ていた」私たちはどうだったのか。私たちが水俣について思い浮かべるのは、劇症の身体、汚染された海、闘争の現場といった強いイメージではなかったか。それらを現実そのものと見なし、括弧で括られた「水俣」の外の風景や暮らしを想像することを、怠ってはいなかったか。

本展では、その内省に向き合うかのように、未公開を含む多数のカットが提示される。そこには劇症型患者の姿だけでなく、一見して患者とはわからない人々の姿や、子供たちの日常が同等に並べられている。
「その頃は何とも思わなかったカットが、捨てがたいものとして浮かび上がってきた、一枚一枚の写真が語りかけてくる」
(塩田武史『僕が写した愛しい水俣』岩波書店、2008、iii頁)
かつては取るに足らないものと見なされていたカットが、いまになって別の意味を帯びて立ち上がる。それは写真が固定された記録ではなく、時代や文脈の変化によって再び開かれるものであることを示している。

この展示を支えているのは、塩田の死後に残された膨大なフィルムの保存とデジタル化の取り組みである。塩田の妻・弘美と本展の企画者である熊本大学文書館・香室結美、そして「水俣・写真家の眼」との協働によって進められているこのプロジェクトは、膨大な写真をアーカイブとして再編成する試みでもある(*2)。 写真は撮影された瞬間だけでなく、現像され、保存され、整理され、提示される過程や手法において意味を大きく変える。その意味で本展は、写真史を考えるうえで重要な実践のひとつと位置づけられるだろう。
*1──この写真はその後、著作権者であるアイリーンの判断により上村家に返され、事実上「封印」された。「アイリーン・アーカイブ」より、「『入浴する智子と母』の写真について」。http://aileenarchive.or.jp/aileenarchive_jp/aboutus/interview.html
*2──現在、一般社団法人「水俣・写真家の眼」(2022年設立)として、塩田やアイリーンを含む9名の写真家の1960年以降に撮影された水俣関連の20万点にもおよぶフィルムのアーカイブ化、活用が行われている。https://minamataphotoeyes.com/
「森田具海写真展 港の木 タイドプール」(Iso Books)
こうした写真表現の蓄積と再編の経緯をふまえて、現在の水俣に向き合っているのが写真家・森田具海(もりた・ともみ)である。1994年に京都に生まれ、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)在学中に石牟礼道子の『椿の海の記』(初版:朝日新聞社、1967)や『苦海浄土』(初版:講談社、1969)に出会った森田は、7年前に水俣に移住し、この土地の風景を撮り続けている。また、自身の活動に並行して、前述の塩田のネガのスキャンやレタッチ作業にも関わっている。
水俣病をめぐる写真表現は、長らく「告発」や「記録」という強い使命と結びついてきた。塩田が向き合っていたのは、いまだ不可視であった被害をいかに伝えるかという切実な状況であり、そのなかで撮影された写真は強いイメージとして社会に流通した。しかし同時に、写真が現実を固定化してしまうことへの葛藤もまた、彼の内に残された。森田が立っているのは、そのイメージがすでに共有された後の地点である。今日、水俣で「撮ること」自体が自明の意味を持つのではなく、なぜ撮るのか、どのように撮ることが可能か、という問いが前提としてある。

森田の写真には、いわゆる水俣病を直接示すモチーフは現れない。埋立地、海水を吸うというアコウの木、本展のタイトルにもなった潮の満ち引きによって磯に現れるタイドプール(潮溜まり)、草木に覆われた古い共同井戸といった、断片的な風景が写される。それらは一見すると穏やかで、過去の出来事とは無関係のようにも見える。
しかしここで思い起こされるのが、生命科学を提唱する中村桂子(1936〜)の指摘である。中村は、水俣病がなぜ起こったのかをめぐり、チッソの関係者が海を「大きな水の塊」、いわば巨大な「プール」のようなものとして捉えていた可能性に言及している。そこでは、水銀は広い海のなかで薄まり、人間に害は及ばないだろうと考えられていた。しかし実際には、海には海藻や魚、微生物といった多様な生命が存在している。それらが有機水銀を取り込み、食物連鎖のなかで濃縮していった。海は均質な水の集積ではなく、生きものが関係しあう「場」であったにもかかわらず、その想像力が欠けていたところに、この悲劇の一端があったと中村は指摘する(*3)。
いっぽうでタイドプールは、潮の満ち引きによって一時的に現れる、小さな生命の場である。そこには多様な生物が関係しあい、環境とともに絶えず変化する複雑な生態系が息づいている。また、石牟礼の『苦海浄土』には、ビオトープのような水俣の井戸が描写されている(*4)。森田が捉え続けるこのモチーフは、海をめぐるこうした認識の差異──均質な「プール」としての海と、関係の網の目としての海──を静かに可視化するものとして読むことができるだろう。
メチル水銀によって侵されたのが人間だけではなく、海や魚、猫や海鳥といった「生の総体」であったという事実が、あらためて立ち上がってくる。やがて海のヘドロは、魚やあらゆる生きものもろともドラム缶に詰められ、「エコパーク水俣」と名付けられた埋立地の下に埋設された。表面上は均された土地として現れている現在においても、痕跡は風景のなかに沈殿しているのである。
森田の写真は、その見えない層をことさらに強調することなく、現在の風景として差し出す。そこには強い告発の言葉も、わかりやすい物語もない。他者を撮ること、表象することが時に暴力性に結びつくことを自覚し、語りえないことと折り合いをつけながら、なおこの土地に身を置き、人々と交流し、生活の延長として撮影という記録を続ける。
「それでもだんだんとわたしにはわたしの風景が見えてきた気もした
それは純粋な『私の』というよりは、もっと複雑に感じる
何気ない場所一つひとつにも
さまざまな立場や考えを持つ人たちの記憶が入れ子のように重なり合わさっているようだ」
(森田具海『港の木 タイドプール 写真と短文』zine、2026)

会場で、小さくだが人の姿が写り込んだ一枚の写真に目が留まった。よく見ると、アコウの木の根元に向き合っているのは森田自身である。反射や影ではなく、写真家本人の全身が画面のなかに明確に現れている。つまり、この写真は誰か別の人の手によってシャッターが切られていることになる。
本来、カメラの背後にいるはずの写真家が被写体として画面のなかに存在すること──写真における「撮るもの」と「撮られるもの」という関係が、ここでは反転している。森田は、自身の作家性や視点の固有性を前面に押し出すのではなく、自らを風景のなかに置き、他者の視点を招き入れようとする。この「他者」とは、この土地で日々同じ風景を見ている人々であり、かつてそれを見ていた人々であり、そしていま、写真の前に立つ私たちでもある。
*3──若松英輔『NHK「100分de名著」ブックス 石牟礼道子 苦海浄土〜悲しみのなかの真実』NHK出版、2019、30-31頁。
*4──「四角い広々とした井戸の、石の壁面には苔の蔭に小さなゾナ魚(ルビ:め)や、赤く可憐なカニが遊んでいた。このようなカニの棲む井戸は、柔らかな味の岩清水が湧くに違いなかった。」『苦海浄土 わが水俣病』講談社文庫、2021、10頁。


























