ドットアーキテクツ《アーキジム》──美術館のなかにつくられた「広場」
《outline bar》とあわせて見たいのが、建築家ユニット、ドットアーキテクツによる《アーキジム》(2026)だ。アーツ前橋で行われた活動やワークショップの成果を再構成し、美術館内に一種の「広場」を生み出す作品である。
ここでは展示されているものを遠くから眺めるのではなく、人が集まり、使い、時間を過ごすことそのものが作品の一部となる。完成された建築物を鑑賞するというより、「人が場所をどのように使うのか」という行為そのものを建築として提示していると言っていいだろう。
芸術祭期間中にも人や活動を受け入れながら変化する《アーキジム》は、完成品としての建築というより、美術館のなかに仮設的な公共空間をつくる試みとして見ることができる。

渋谷慶一郎《Abstract Music》──音だけで街の風景を変える
アーツ前橋をひと通り見たら、ここからは街へ出たい。オリオン通り商店街で渋谷慶一郎が展開するのは、サウンドインスタレーション《Abstract Music》だ。

作家が蓄積してきた膨大な音響データを、プログラムがリアルタイムで組み合わせるため、聞こえてくる音は常に変化し、同じ組み合わせは二度と現れない。かつて商店街として賑わい、現在は多くのシャッターが下りるオリオン通りに、風や囁きのように音が流れ、響きあう。
大きな造形物を置くのではなく、音によって街の知覚だけを書き換える。その控えでありながらも強力な介入は、都市型芸術祭におけるパブリック・アートのあり方を考えさせる。
蜷川実花 with EiM《空だけは、こっちを見てこなかった》──「衰退と再生」の裏側を見る
蜷川実花は、宮田裕章、Enzoらとともに活動するクリエイティブチーム・EiMとして、ハウゼビルを舞台に新作《空だけは、こっちを見てこなかった》(2026)を発表した。
蜷川は2023年のアーツ前橋開館10周年記念展「ニューホライズン 歴史から未来へ」でも前橋を舞台に作品を発表している。今回の会場は、かつての夜の街の雰囲気を色濃く残す場所だ。

ここで蜷川とEiMは、架空のショーパブ「SCARLET MIRRORS」をつくり出した。実際の建物に残された過去の痕跡と、フィクションとしてつくられた空間を重ねることで、現実と虚構の境界を揺さぶるインスタレーションとなっている。

店内には花や写真、煌びやかな装飾物などが点在し、そのあいだから「かつて店で働いていた5人」の声が聞こえてくる。語られる人物や物語そのものはあくまでフィクションだ。しかし、そこで想起される「誰かがここにいた」という感覚や、店が閉じられ、人が去ったという不在の感触は、この場所に実際に刻まれた時間と重なり合う。
とりわけ興味深いのは、本芸術祭が「めぶく。」という未来志向の言葉を掲げるなかで、本作がそこからこぼれ落ちるものにも目を向けていることだ。都市が新しく生まれ変わるとき、そこから失われる場所や記憶も存在する。
再開発によって新たな前橋がつくられつつあるいま、その陰で消えていくものへ視線を向ける本作は、この芸術祭に別の時間軸を持ち込んでいる。


尾花賢一+石倉敏明《赤城山リミナリティ Part3 山と凧と十二様》──芸術祭を街の外側へつなぐ
最後に挙げたいのが、尾花賢一と石倉敏明による《赤城山リミナリティ Part3 山と凧と十二様》(2026)だ。2人は2019年から、赤城山の民俗や信仰と周辺地域の生活をリサーチする「赤城山リミナリティ」を継続してきた。
第3作となる今回は、赤城山から吹き下ろす「からっ風」に着目。強風を受けて飛ぶ凧に、山の神「十二様」にまつわる伝承や風景を描き、「山・街・人」の関係を再び結び直そうとする。

前橋の中心市街地だけを歩いていると、ともすれば芸術祭は「都市再開発とアート」をめぐる物語だけに見えてしまう。しかし、その都市の背後には赤城山があり、利根川があり、風や信仰、人々の生活が長い時間をかけてかたちづくってきた土地がある。
群馬県太田市生まれの尾花は、馬場川(ばばっかわ)通り沿いの複合施設「ばばっかわスクエア」に設置されたパブリック・アート《ばばっかわ男》(2025)も手がけており、その活動は前橋という土地の地理や歴史とも結びついている。《赤城山リミナリティ Part3 山と凧と十二様》は、芸術祭の視線を市街地からそのさらに外側へと広げ、現在の前橋と、そこに蓄積された長い時間を結び直す作品となっている。




















