諏訪に集った個性豊かな前衛たち
ここからは展示室の中央部で紹介されている、諏訪に集まっていた興味深い作家たちを個別に紹介したい。「かみ派」には、松澤が諏訪実業高校定時制下諏訪分校の数学教諭を勤め上げたように、教職をはじめとする職務をもっていた作家たちが多いことを指摘する。
例えば青木靖恭(1919〜2010)は松澤と30年以上を同僚として過ごした国語教諭で、50年代よりすでに松澤とともに詩や絵画を中心に表現活動を行っており、「かみ派」の一連の活動にも随所で参加している。

松澤の志願弟子であった河津紘(1940〜2011)は長崎県立盲学校の教諭で、「眠る三昧行」と名付けた触覚を意識化する一連の試みを実践した。河津は71年、長崎県立美術博物館で「最終美術への招待展」を自主企画。展示室の点灯時間を日々短縮、最終日には完全に消灯するという斬新な試みを行なった。

栗山邦正(1937〜2006)は、第30回毎日商業デザイン奨励賞を受賞した経験を持つデザイナーで、商業デザインの分野で働きながら、70年の「ニルヴァーナ 最終美術のために」以降、「ニルヴァーナ・コミューン」に参加。中国や日本の伝統的な宇宙思想をもとにしたパフォーマンスや文字作品を展開した。

各作家たちの前衛的なパフォーマンスの数々も興味深い。前述した樹上小屋「泉水入瞑想台」の考案者でもある田中孝道は、フォッサ・マグナの糸魚川静岡構造線上にある1万個の石に「魔字」を書きながら糸魚川を起点に諏訪までを歩く《魔胎ストーン・エイジの翌来を予言す》を実施。

藤原和通(1944〜2020)は、石を擦り合わせた振動によるコンサート「音響標定(ECHO LOCATION)」を画廊や道路上で行い、宿沢育夫(1948〜2023)は「音会」で《死型工房》と題し、山中各所に自身の身体を象徴する人形を設置し、念写を試みた球体を樹上で移動させ、音相を記録することを試みた。また、春原敏之は無名性の象徴として「〇〇〇〇」と書いた千社札を街中のいたるところにゲリラ的に貼り、また「〇〇〇〇」と背に書いた白装束を着て死を思わせるパフォーマンスを行なうなどをしている。



晩年に至るまで東京・国立市で「首くくり栲象」を名乗り、自宅の庭で首を吊るパフォーマンスを続けた古沢宅(1947〜2018)も、「音会」で下半身を石膏で固めて「首吊り」を行う《風化》を実施。さらに小林起一(1936〜2006)は「音会」で立木30本余りに白布を巻きつけて冥府を象徴する場を立ち上げた。なお、小林は《ねり千ぎりの儀》と呼ばれる、独自のうどんづくりの儀式も実施している。


出品作品(1977)
舞踏やダンスを主軸とした表現者たちにも注目したい。「パーリニバーナ・パーリヤーヤ体」は、鈴木裕子(1938〜)、赤土類(1937〜2025)、辻村和子(1941〜2004)の「三体」によって成り、舞踊を主として活動した。その奇妙な名前は松澤によって命名されており、「パーリ」はパーリ語の「完全」の意味を示す「パリ」であり、「ニバーナ」は梵語の「ニルヴァナ」、ヤーヤは「法門」と解いているという。「白い思想、その旅立ち宣言」などに参加した。なお、その後、赤土は独自の表現を探求し89年のサンパウロ・ビエンナーレに招聘、辻村は日本におけるバリ舞踊の第一人者のひとりとなった。

このように、本展では諏訪に集った表現者たちが、松澤の思想からの影響を受けながらも、独自の活動を試みていたことがよくわかる展示となっている。なかでも、仏教思想への共鳴が共通して見られることが興味深い。作家たちは仏教的価値観を、現代美術において強い影響力を持つ西洋から輸入された思想とは異なる、前衛性の支柱として求められていたとも言えるが、いっぽうで木内は「当時はまだ信仰が強く残っていたであろう地元長野の作家も多く、育つ過程で自然と内面化してきた仏教的価値観に向き合ったともいえるのではないか」と語る。
たしかにこれら「かみ派」の運動は、松澤をはじめとした観念的で難解な言葉が運動の駆動力になっているものの、いずれのパフォーマンスもどこか生活の延長線にある感覚があり、同人たちが集まり日常的な視点をずらすことを、様々なかたちでおもしろく試みていたという印象を受ける。生涯のほとんどを諏訪で過ごした松澤のように、前衛を地元の生活のなかに宿す、むしろだからこそ前衛が宿るというメッセージを受け取めることができそうだ。本展における「かみ派」という誰もが毎日にように触れている身近な素材名を冠した派閥の提示は、きっとそのような日常との関係において説得力を持つのだろう。



















