「かみ派の美術―諏訪につどった前衛たち 1969−1974」(長野県伊那文化会館)会場レポート。生活の延長にこそ前衛が宿る【2/3ページ】

長野で行われた企画の数々を資料とともに紹介

 まずは、会場で紹介されている展覧会やパフォーマンスを大まかな年代順に見ていきたい。1969年、長野県信濃美術館(現・長野県立美術館)で自主企画展覧会「美術という幻想の終焉」展が開催された。これは「作品をつくること」を放棄し、芸術の、あるいは芸術による「完全な開放」を希求することを謳った展覧会で、松澤をはじめとした長野県出身の作家たち、そして批評家の中原佑介が選んだ作家たちによって行われた。内容の詳細は不明なものの、鑑賞者による主体的な参加によって成り立つ展覧会であったことが察せられ、松澤は「自筆年譜」(『機關』13号、1982年9月)において、「日本で始めての概念美術の展覧会であった」と評している。

「美術という幻想の終焉」のポスターなど

 翌年の70年、前衛芸術家としてすでに高い評価を得ていた松澤は京都市美術館で「ニルヴァーナ 最終美術のために」を開催。これは松澤の「ニルヴァーナにつどう表現者たちを『核運動体連合』と呼び、それぞれの存在を尊重し、各々の活動を見守り、助言し、協働した先に、まだ見ぬニルヴァーナ(最終美術)がある」(「ニルヴァーナ 最終美術のために」ステートメントより)という思想をもとに開催されたものだ。

「ニルヴァーナ 最終美術のために」が誌面で呼びかけられた『美術手帖』1970年3月号

 こうした動きに呼応するように、諏訪では71年に「白い時の会」を主宰していた上諏訪在住の金子昭二(1927〜2017)によって、イベント「白い思想、その旅立ち宣言」が行われる。これは金子の自宅裏庭に10平米の穴を掘り、そこに作品と白樺を植えることで、やがて「思想」が誕生するというものだ。同じく71年には田中孝道(1945〜)の発案により、「音」をめぐるイベント「音会(おんえ)」が、下諏訪山中につくられた樹上小屋「泉水入瞑想台」と周辺の森で開催される。いずれも松澤が参加しており、参加者は松澤が唱えた「ニルヴァーナ(最終美術)」への応答を示した。

 71年末、松澤は「未世に同時に生きるキズナの最後の表現形式で、心の共有のための最初の表現形式」とされる「世界蜂起」の第1回を国内外に要請する。松澤は人類消滅を迎える2222年までのあいだ「世界蜂起」が起こり続けると述べ、そのための観念と行為を各自用意し、その全容を文章や写真、フィルムなどに記録して松澤が自邸に用意した「虚空間状況探知センター」に送付せよ、と呼びかけた。この呼びかけに応じて松澤のもとに送られた作品は『美術手帖』1972年11月号などに掲載され、全国から前衛芸術家たちが諏訪に集まり活動するひとつの契機となった。

「白い思想、その旅立ち宣言」(1971)の参加者たちの写真、穴を掘り、文や写真を埋める
「音会」(1971)参加者の集合写真(右)
「音会」(1971)に寄せられた作品群
松澤の「世界蜂起」の要請文。第3回まで行われた

 72年、地元テレビ局・SBC信越放送の番組「ズームイン信州」からの出演依頼があった春原敏之(1942〜)と杉村俊明(1945〜)は、田中と「音会」に続く試みとして「山式(やましき)・雪の会座(かいざ)」を企画。「ニルヴァーナ(最終美術)」に関わる作家たちの姿勢をテレビ放送によって広く届けようという試みのもと、2月の零下15度になる樹上小屋「泉水入瞑想台」で様々なパフォーマンスを繰り広げた。これは後に特別番組としてまとめられSBCで放送されたという。テレビ放送というメディアを前衛芸術家たちが意識的に利用した事例のひとつとして記録される。

 同年3月の自主企画展「ひらかれている」は、松澤、水上旬(1938〜2019)、田中、春原によって企画され、長野県信濃美術館の展示室だけでなく、美術館の建つ城山公園、さらにその敷地を越えて町中に展示を展開。近隣の神社でもパフォーマンスが行われたという。本展には、50年代に丸木位里・赤松俊子夫妻の《原爆の図》の全国巡回を手がけたことでも知られる芸術家のヨシダ・ヨシエ(1929〜2016)が、「メタ展覧会」とでも言うべきコンセプトをテキストとして寄せている。

「山式・雪の会座」(1972)に寄せられた作品群
「山式・雪の会座」(1972)のパフォーマンスの記録
「ひらかれている」(1972)の4色のポスター

 72年の終わりになると、松澤はさらなる概念「カタストロフィー・アート(破局芸術)」を提唱。これは現代の物質文明の繁栄からくる危機意識を背景にしている。ミラノ、東京で「カタストロフィー・アート」展が開催され、20名を超える作家たちの文字や写真による紙を中心とした作品が出品された。

 その後、松澤はシンポジウムなどを通して、自身の思想を国際的な芸術家ネットワークへと接続することを試みる。77年、磯崎新、粟津潔、工藤哲巳とともに松澤が参加した「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」はその試みのひとつの集大成といえよう。ここで松澤は仏教思想に基づく《九想の室》を出品し、これまで「ニルヴァーナ(最終美術)」の思想をもとに共働してきた、いわゆる「ニルヴァーナ・コミューン」の21作家たちによるパフォーマンスの写真を展示。世界に紹介した。

 いっぽうで担当学芸員の木内真由美は、本ビエンナーレで展示されたパフォーマンス写真は過去の活動記録の紹介といった趣であり、77年の時点ですでに各作家はそれぞれの表現活動や職務へと向かっていたことを指摘する。各個の前衛的表現はその後も継続するが、「かみ派」をひとまとまりの歴史として考えるときに、このビエンナーレはひとつの区切りと考えていいだろう。

「カタストロフィー・アート」(1972)の案内状や書籍
「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」(1977)の松澤宥の展示記録
「生誕100年 松澤宥」(長野県立美術館、長野、2022)展示風景より、「第14回サンパウロ・ビエンナーレ」の《九想の室》の再現展示

編集部

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