学芸員・大内曜インタビュー:いくつもの「場所」と「時間」を共鳴させ、東京都美術館の100年を語り直す【2/3ページ】

大牟田を生きた画家の100年

──続く第二部では、上野から遠く離れた土地で活動した画家・江上茂雄が取り上げられます。この知る人ぞ知る画家を選んだ理由にはどのようなものがありますか。

大内 江上茂雄は1912年福岡県に生まれ、大牟田で暮らした画家です。会社員として大家族の生活を支えながら、空いた時間で生涯絵を描き続けました。戦時中までは水彩画や鉛筆によるスケッチが中心でしたが、戦後はクレヨンやクレパスを使った大画面の絵画へと展開し、さらに定年退職後は約30年間にわたり、身近な風景を水彩画で描き続けました。当館と直接の関わりはないのですが、同時代をまったく異なる土地で生きてきた美術家の営みを追うことで、様々な「もうひとつの100年」が存在したことを浮き彫りにできればと考えました。

第二部「大牟田―江上茂雄の100年」の展示の様子。初期のスケッチから水彩画、クレヨンやクレパスを用いた大画面の作品まで、江上の創作活動の全貌が紹介されている

 第一部とのつながりを探るとすれば、アンデパンダン展の隆盛期に福岡で結成された前衛美術集団「九州派」の存在が挙げられます。彼らがこぞって上京し、アンデパンダン展に出品した背景には、1960年代前後に大牟田で起きた炭鉱労働運動「三池争議」がありました。エネルギーが石炭から石油へと変わっていく転換期に起こった炭鉱労働者の生活の揺らぎが、九州派の作家らの原動力のひとつだったのです。

 じつは江上自身もまた、大牟田で炭鉱関係の会社に勤めていました。三池争議は当然ながら江上の創作にも大きな影響をもたらし、会社を追われる強い不安を抱きながら、それを原動力に新たな木版画による風景シリーズ(「大牟田五十景」)や、即興的につくりだす抽象絵画作品などを生みだしていきました。また、第一部では戦争の時代に焦点を当てていますが、江上にとってももちろん戦争の時代の苦しさは共通しています。美術館で大画面に描かれた戦地での兵士たちの活躍の姿に大勢の観客が熱狂するいっぽう、徴兵されなかった江上は屈折した思いを抱え、道端の花を描くことに救いを見出していました。離れた場所でありながら、社会の動きは地続きであり、それに対しそれぞれの場所で、それぞれの人がどういった反応を示していたのか、ということなども対比しながら鑑賞いただけたらと思っています。

──江上作品を鑑賞するうえで、具体的な注目ポイントを教えてください。

大内 キャリアのなかで自身の作風を大きく変化させている点でしょうか。若い頃は水彩画を、徴兵を免れた戦時下では鉛筆と水彩で道端に咲く花を線描で緻密に描き、そこからクレパスを使った風景画に長く取り組みました。また、先ほど話したように、三池争議の頃には、実験的な抽象絵画に挑戦したこともありました。

江上が定年退職後から約30年にわたって描いた水彩による風景画の数々

 そして第二部の大きな見どころとなるのは、定年退職後に再び水彩画へと回帰した約30年間の活動です。毎日のように遠くまで歩いていって、目の前の風景を1枚描いては帰ってくるという生活を続けました。日々の天候や本人の心情が反映されたのかとも想像されるこの晩年の水彩画シリーズが、本展のハイライトのひとつと言えるでしょう。

江上が孫に宛てて送った絵入りのはがき

 ほかにも、押し花や自身で染めた色紙を使った作品、孫に宛てて描いた絵入りのはがきなど、総数400点にも及ぶ出品作品から、江上の創作活動の全貌を一挙にご覧いただけます。ただ、これもまだ残された作品のうちのほんの一部に過ぎません。恵まれたとは言えない生活のなかで、家族たちを養いながら、それでも描くことをあきらめず、そこにのめりこんでいった数十年という時間。誰かに見せるためではなく、ただ自分のために描かれた絵。そのような非常に個人的とも言える表現のなかにもやはり時代が反映されており、社会の変化・動揺というものが映し出されている。静かで力強い表現が、美術館という場所から遠く離れたところで続けられてきたことに、美術館として目を向けていく必要があるのではないかと考えています。

 今回は、数年にわたる調査を経て、これまでに公の場で展示されたことのない江上作品を多数展示しています。この機会に、ひとりでも多くの方に江上茂雄やその作品と出会っていただきたいですし、これまでに江上さんの絵を見たことがある方にとっても、必ず新しい発見があると思います。

「ブエノスアイレス」に渡ったある日本人の100年

──第三部では、藤岡鉄太郎の《百日草の庭》(1926)と、大牟田からさらに遠く離れたブエノスアイレスという場所が取り上げられています。この藤岡の行方を追ったリサーチがプロジェクトとして展示されていますが、いったいどのような内容なのでしょうか。

大内 ここではいわゆる美術作品の展示とは趣が変わり、写真や映像、テキストなどを用いたリサーチ・プロジェクトの成果が展示されています。第三部の企画・構成はAHA! [Archive for Human Activities /人類の営みのためのアーカイブ]が担当しています。本プロジェクトのはじまりは、当館の最初の収蔵作品である藤岡鉄太郎《百日草の庭》です。鈴木昇一の《臨海学校》(1927)とともに1927年に収蔵された記録はありますが、なぜこの2点が選ばれたのかはよくわかっていません。100周年記念である本展において、100年前に描かれ、現在は東京都現代美術館に保管されているこの《百日草の庭》の謎を追うリサーチ・プロジェクトの企画をAHA!の松本篤さんから提案していただきました。

第三部「ブエノスアイレス―《百日草の庭》をめぐる100年」では、「藤岡鉄太郎」をめぐるリサーチの成果が発表されている

 藤岡鉄太郎についてどこまで深く追いかけられるかは未知数でしたが、1927年に、同姓同名(同音異字)の人物「藤岡鉄太郎(ふじおか・てつたろう)」がブエノスアイレスに渡っていたということを知り、リサーチが動き出しました。「絵だけが当館に残っていて描き手の正体がわからないのは、海外移住したからではないか」という仮説をきっかけに、AHA!はこの人物を追いかけ始めます。

 さらに調べると、その人物には絵を描く趣味があったとわかります。アルゼンチンの関係者などに問い合わせを重ねることで、現地のご遺族にたどり着くことができました。彼の長女も存命で、描いた絵も残っていることがわかり、ならばと思い切ってAHA!は現地まで向かうことになります。出発前に起こった思いがけない出来事から、リサーチは、鉄太郎が残し家族たちが受け継いできた庭の物語へと導かれていきます。

 本プロジェクトでAHA!は、「かねたろうはてつたろうなのか?」という問いから出発し、美術館の歴史とはまた異なる「100年」を探ることを試みました。その結末がどのようなものであったか、ぜひ会場で目の当たりにしていただければと思います。

本プロジェクトを担当した松本篤(AHA! 世話人)

編集部

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