画家としての活動と、同時代の画家たち
──師匠や同時代の画家たちとの交流について、現在はどのように考えられていますか。
青野 レンブラントの弟子であるカレル・ファブリティウス(1622〜56)などが候補に挙がったこともありましたが、現在では、おそらく地元の画家から手ほどきを受けた後で、デルフト以外の都市で活動した画家のもとに弟子入りしたと考えられます。

同時代の画家との交流も盛んでした。とくにデルフトで活動したピーテル・デ・ホーホ(1629〜84)とは互いに強い影響を与え合っており、格子柄の床タイルや奥行きのある室内空間の表現はデ・ホーホとの切磋琢磨から生まれたものだと考えられています。また、ヘラルト・テル・ボルフ(1617〜81)といった他都市の風俗画家とも親交があり、テル・ボルフがデルフトを訪れた際、とある証書にフェルメールとともに証人としてサインを残している記録もあります。
──フェルメールは積極的にほかの画家とも交流をしていたのですね。画家たちのコミュニティのなかでも重要な役割を果たしていたのでしょうか。
青野 フェルメールは29歳の若さで聖ルカ組合の「理事(組合長)」に選出され、37歳で再び選ばれています。これはフェルメールが同業者たちから深い信頼と信望を集め、社会的な地位を確立していた証拠とも言えます。
自身の作品《ヴァージナルの前に立つ女》(1670〜72頃)の背景に、同僚であるデルフトの画家ピーテル・フルーネウェーヘンの風景画(画中画)を描き込むなど、地元の仲間を意識し、互いに高め合うオープンな交友関係を築いていた様子がうかがえます。
17世紀オランダの美術市場
──フェルメールは画家であると同時に、美術商や鑑定士としても活動していたそうですね。
青野 当時画家が画商を兼ねることは一般的で、フェルメールも自作を売るだけでなく、他者の作品を仕入れて販売する美術商の活動を行っていました。また、イタリア絵画の真贋鑑定のためにハーグへ招かれるなど、目利きとしての信頼も得て活動していた可能性もあります。
──当時の美術市場と、フェルメールの制作スタイルの関係について教えてください。
青野 17世紀にプロテスタントの市民中心の社会が成立したオランダでは、教会や王侯貴族に代わって市民が主な購入者となり、不特定多数に向けて完成作品を売る「自由な絵画市場」が成立していたと言われています。 絵画需要の高まりとともに絵を描く人々も急増して競争が激しくなり、各自が得意なジャンルや題材に特化して専門化を図っていきました。ただ、腕がよく著名な画家には富裕層の顧客やパトロンがついており、注文制作も行っていたと考えられます。

フェルメールも例外ではなく、作品を広く売るために流行を追うのではなく、特定のパトロンに向けて描くスタイルをとっていました。生涯で制作した36点の作品のうち21点ほどを継続的に購入してくれるパトロンが存在したからこそ、流行よりもそのパトロンが何を欲しているかを考えながら描くことができたのだと思います。



















