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最新の研究から紐解くフェルメールの人物像。17世紀オランダ絵画の研究者・青野純子の言葉から探る

17世紀オランダ絵画を代表する画家ヨハネス・フェルメール(1632〜75)。静謐な室内画や「光の表現」で人々を魅了し続けるフェルメールの作品世界は、いまなお大きな注目を集めている。残された史料が限られ、「謎多き画家」とも称されるフェルメールは、どのような時代や環境を生き、なぜこれほどまでに評価される画家となったのか。最新の研究によって浮かび上がってきた新たな人物像と魅力について、17世紀オランダ美術史を専門とする慶應義塾大学教授の青野純子に教えてもらった。 ※9月14日24時まですべての方に全文お読みいただけます

聞き手・構成=大橋ひな子(編集部)

ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》(1665頃)キャンバスに油彩 44.5×39cm マウリッツハイス美術館 ©Mauritshuis, The Hague

フェルメールはどんな人物だったのか

──「謎多き画家」とも呼ばれるヨハネス・フェルメールは、どのような生い立ちの人物だったのでしょうか。現在判明している人物像について教えてください。

青野純子(以下、青野) フェルメールは「謎の多い画家」とよく言われますが、公的な記録がほとんど残っていないというわけではありません。1632年にオランダの古都デルフトで生まれたことや、家族構成や結婚相手といった事実は史料からしっかりとわかっています。

 フェルメールは、父、母、12歳年上の姉、そして自身の4人家族で育ちました。フェルメールの生い立ちを考えるうえで重要なのは父親の存在です。父レイニールは、デルフトの中心に近い場所で居酒屋を兼ねた宿屋を営みながら、その宿屋で画商として絵画の販売も行っていました。フェルメールは幼少期から日常的に絵画や地元デルフトの画家たちに囲まれた環境で育ちました。また、姉の夫は額縁職人であったことなど、広い意味で芸術に関わる環境が身近にあったと考えられます。

 転機となったのは20歳前後の頃です。ちょうど絵の修行を終えるかというタイミングで父親が亡くなりました。フェルメールは母の手伝いをしながら独立を決意し、約1年ほどのあいだに、結婚、聖ルカ組合(画家のギルド)への加入と独立を矢継ぎ早に行います。若くして家計や自身の生活を背負い、画家として歩み出した強い自立心がうかがえます。

 ただ、この結婚はスムーズに決まったわけではありませんでした。プロテスタントの庶民家庭出身だったフェルメールに対し、結婚相手のカタリーナ・ボルネスの家はカトリックの資産家でした。そのため、当初は義母となるマリア・ティンスから家柄の違いなどを懸念されたのか、結婚を簡単には賛成してもらえなかったようです。また、結婚を機にフェルメールはプロテスタントからカトリックへ改宗したと言われることもありますが、決定的な証拠が残っているわけではありません。ただ、当時プロテスタントを国教とするオランダで、カトリックの妻や義母と同居していたことは確かです。

 妻のカタリーナとのあいだには14人ほどの子供が生まれ、うち11人が無事に育ちました。当時としてもかなり子だくさんな家庭で、義母マリア・ティンスの裕福な実家と同居しながら、賑やかな環境のなかで制作を続けていました。

──「謎の多い画家」と言われるゆえんはどこにあるのでしょうか。

青野 一番の謎は、フェルメール自身の内面や思考を記した日記や手紙といったプライベートな史料が残っていない(見つかっていない)点です。そのため、どのような性格で何を考えて描いていたのかといった内面が見えにくいのです。

 さらに大きな謎として、「誰に絵を習ったのか(師匠)」そして「弟子がいたのか」が明確でないことが挙げられます。公的な記録はあるものの、画家としての修業時代や工房の実態といった部分に史料の空白があることが、「謎めいた画家」というイメージを強める要因となっています。

フェルメールが生きた17世紀オランダ・デルフトの様子

──フェルメールが生涯を過ごしたデルフトとは、当時どのような街だったのでしょうか。

青野 当時のオランダは、貿易と市民社会の発達によって「繁栄期」を迎えていました。そのなかでデルフトは運河に囲まれた比較的コンパクトな都市でありながら、織物業や造船業、そして「デルフト陶器」の生産などで栄えた街でした。また、オランダ総督の墓所がある新教会を擁するなど、文化的象徴をもつ都市でもありました。

現在のデルフトの街並み。《デルフトの眺望》(1660〜61)が描かれた場所 撮影:河内秀子

──そうした時代や土地の環境は、フェルメールの活動にどう影響したのでしょうか。

青野 デルフトには、顕微鏡を発明したアントニー・ファン・レーウェンフック(1632〜1723)に代表される科学者もおり、「科学的な視覚への関心」などが街全体で共有されていました。カメラ・オブスクラなどの光学機器や、精緻な遠近法を用いた教会室内画の発達など、当時の人々が興味を持っていた視覚的な試みなどは、フェルメールの空間や光の表現とも深く結びついています。

編集部