フェルメールについて、今日知られていることは数少ない。生まれた土地と洗礼を受けた年、没した年、そして結婚と子供の数くらいだろうか。日記や手紙、アーティストとしてのプロフィールを語るようなエピソードも残っていない。だからこそ、知りたくなる。フェルメールが生涯を過ごした街デルフトで、いま、作品が生まれた背景や周囲を取り巻く環境にスポットを当てる展覧会「フェルメールのデルフト」が開催中だ。
アムステルダムから電車で約1時間。デルフトは、オランダ南西部にある人口10万人ほどの小都市だ。有名な工科大学があって大学都市としても知られている。そのためか、古い街並みが印象的だが、そのなかにはクラフトビールの店やカフェ、ミュージアムがあり、新しい文化が息づく。
「フェルメールのデルフト」の会場、デルフト・プリンセンホフ博物館は街の中心部にある。もともとは修道院だが、ネーデルラント連邦共和国(現在のオランダ王国の原型)の初代総督オラニエ公ウィレム1世が拠点を置き、暗殺された場所として有名になった。展覧会では、フェルメールが所属していた職人組合(ギルド)の仲間の絵画や、絵の中に描かれているデルフト陶器の器、家具などから当時の空気感を探っていく。
フェルメールは1632年10月31日にデルフトの新教会で洗礼を受けた。父親は、美術商で宿屋も経営していた。ワインや喧騒、そしてアートに囲まれた子ども時代を過ごしたのだろうと想像できる。1653年、フェルメールは父と同じ聖ルーカスギルドに参加する。当時はギルドに入っていなければ、絵を売ることはできなかった。誰がフェルメールの師であったかは知られていないが、ギルドに参加するためには画家の元で6年間の修行を経ていることが条件だったというから、独学ではなかったのだろう。このギルドには画家はもちろん、ステンドグラスや彫刻、陶芸家や印刷職人なども参加していて、各方面から刺激を受けたようだ。
ギルドに参加した年は、フェルメールがカタリーナ・ボルネスと結婚し、カトリックに改宗した年とも重なっている。義母マリア・ティンスは最初、この結婚に乗り気ではなかった。展覧会では、義母の反対により、一回取り消し線が引かれている婚姻届を見ることができる。
マリア・ティンスはユトレヒト派の絵画数多くを所有しており、フェルメールの初期作品にはこの影響が見られるそうだ。ティンスのコレクションで、フェルメールの《ヴァージナルの前に座る女(ナショナル・ギャラリー・ロンドン所蔵)》の背景に描かれているディルク・ファン・バビューレンの《娼婦》は、この展覧会の白眉である。フェルメールはこれらの絵を自分の作品の中に取り入れただけでなく、《取り持ち女》などで独自の解釈で同様の状況を描いている。
展覧会のもうひとつの見所は、ヤン・ステーンの《デルフトの、アドルフとカタリーナ・クルーザー》だ。デルフトの裕福な商人の家族と物乞いを描いた作品である。陶磁器と貿易で栄えた商都デルフトの街の光と影。この街でフェルメール自身も裕福な妻と結婚したが、借金を抱えた貧しい画家としてその生を終えた。展覧会にはフェルメールの死後、パン屋に多額の借金を背負っていたことがわかる文書もある。フェルメールの絵画2枚が、3年間のパン屋への借金の担保になっていた。
資産家だった義母だが、フランスの侵略戦争より財は減り、義母に先駆けて亡くなったフェルメールは財産を譲り受けることはなかった。
展覧会を見終わってプリンセンホフ博物館の外に出ると、フェルメールが生きていた17世紀と同じように、人々の生活が息づくデルフトの街が広がっていた。当時と変わらず、街のいたるところに運河が張り巡らされている。父親が経営していた宿、隣接するフェルメールが属していたギルドハウスは現在はフェルメールセンターになっている。
運河に沿って《デルフトの小路》を描いたフェルメールのアトリエがあった場所を訪ね、《デルフトの眺望》を描いたと思われる場所に立つ。フェルメールは、43歳で亡くなった。早逝した子供たちとともに旧教会に埋葬された。
多くの子供のお腹を満たすため、日々のパンのために働く父親、夫。そして義理の息子。伝説の画家としてではなく、ひとりの人間としてのフェルメールの姿が少しだけ見えてきたようだ。