スクリーンの外へ広がる映像表現のパイオニア
──まず、トニー・アウスラーとはどのような作家なのでしょうか。これまでの歩みも含めて教えてください。
椿玲子 トニー・アウスラーは1957年にアメリカ・ニューヨーク州で生まれ、1970年代後半にカリフォルニア芸術大学(CalArts)で学びました。当時のCalArtsは、ジョン・バルデッサリやローリー・アンダーソンらが教え、現代美術、音楽、パフォーマンスが分野を越えて交差する実験的な環境でした。そこでマイク・ケリーやトニー・コンラッドらとも出会い、現在につながる創作の基盤が築かれます。
1980年代以降はニューヨークを拠点に活動し、映像を立体物や空間へ投影する独自のインスタレーションによって国際的な評価を確立しました。現在では、映像インスタレーションやマルチメディア・アートを代表する作家のひとりとして位置づけられています。
──アウスラーは日本では決して無名ではありませんが、その活動の全体像は必ずしも広く知られているわけではありません。現代美術史のなかで彼をどのような作家として位置づけるべきでしょうか。
椿 日本では、顔や眼を立体物に投影し、まるで生き物のように語りかける「カリカチュア」シリーズや、マイク・ケリーとの共同プロジェクトや実験音楽グループ「The Poetics」での活動によって記憶している方が多いかもしれません。ただ、アウスラーの実践はそうした作品にとどまりません。彼は映像を用いるだけでなく、彫刻、音、光、言葉、パフォーマンス、ときには香りまでも組み合わせながら、鑑賞者を包み込むような没入型インスタレーションを生み出してきました。

その点で彼は、映像という枠組みに収まらない、マルチメディア・アートの領域を大きく押し広げた作家だと言えます。現代美術史の流れで見るなら、ナムジュン・パイクやビル・ヴィオラ、ゲイリー・ヒル、ローリー・アンダーソンらに続く世代に位置づけられますが、彼らが切り開いたビデオ・アートやマルチメディア・アートをさらに拡張し、現在につながる表現へと発展させた存在だと考えています。
──本展のプレスリリースでは、アウスラーを「映像インスタレーションやプロジェクションによる表現を切り開いたパイオニア」と紹介しています。彼が登場する以前の映像表現と比べて、何が革新的だったのでしょうか。
椿 ひと言で言えば、映像を四角いスクリーンやモニターから解放したことです。例えばナムジュン・パイクは、テレビそのものを彫刻的に用いることで映像表現を大きく拡張しました。しかし、そこに映し出される映像自体は依然として四角い画面のなかに留まっていました。いっぽうアウスラーは、映像を立体物へ投影し、さらには屋外空間へと解き放っていきます。映像はもはや平面の画面に収まるものではなく、空間そのものを構成する要素となったのです。
2001年、『ニューヨーク・タイムズ』紙は彼を「ビデオによる空気の彫刻家(A Sculptor of the Air with Video)」と評しました。この言葉はまさに彼の革新性を言い表していると思います。映像を“見るもの”から“体験するもの”へと変え、空間のなかで立ち上がる存在へと変容させたことこそが、アウスラーの大きな功績でした。
──アウスラーの作品を見ていると、顔や眼といったモチーフが繰り返し登場します。これらは彼の作品世界においてどのような意味を持っているのでしょうか。
椿 アウスラーにとって顔や眼は、人間とメディアが出会う最前線のようなものなのだと思います。彼は人形や球体の上に映像を投影しますが、それによって映像は画面上のイメージにとどまらず、こちらを見つめ返し、語りかけてくる存在になります。
例えば本展のキービジュアルにも用いられている《スペキュラー》(2021)では、暗闇のなかに無数の眼球が浮かび上がり、鑑賞者を見つめ返します。そこに映し出されているのは単純な「眼」ではありません。虹彩の部分にはニュース映像やSNSのような断片的イメージが映り込み、私たちが日々どのような情報に囲まれながら世界を認識しているのかを示しています。

私たちは自分の意思で世界を見ているつもりですが、実際には社会的背景や文化的文脈、メディアを通じて得た情報など、様々なフィルターを介して現実を認識しています。アウスラーの作品は、そうした「見ること」の前提そのものを可視化しているのです。
また彼は1990年代から顔を投影した人形作品を数多く制作してきました。こうした顔はある意味では作家自身の分身でもあり、同時にテレビやメディアを見つめてきた私たち自身の姿でもあります。鑑賞者が一方的に作品を見るのではなく、作品からも見返される。その「見る/見られる」の反転こそが、アウスラーの表現の大きな特徴だと言えるでしょう。
近年では《C>o++》(2017)のように顔認証技術を参照した作品も制作しています。そこでは顔が個人の表象であるだけでなく、データとして流通し、管理される現代の肖像概念が提示されています。顔や眼は、彼にとって人間の心理や知覚だけでなく、テクノロジーや社会との関係を考えるための重要なモチーフなのです。

右:《C>o++》(2017) Courtesy of The artist and Lehmann Maupin, New York, Seoul, and London






























