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保坂健二朗が語るアール・ブリュットの現在地──国内外におけるコレクションの形成、マーケット、そして役割と可能性について【4/5ページ】

コレクションを補完することの意味

 コレクションの「漏れ」や「欠落」をいかに表明し、補っていくか。この課題に、日本の多くの美術館も目下直面している。代表的な欠落のひとつは、女性アーティストによる作品だ。もうひとつは、日本がそこに属するはずのアジアのアーティストによるそれである。

 女性のアーティストについては、その不在をきちんと認め、過去への反省を表明しつつ、展覧会の開催や収集に動く館が増えている。購入予算があり積極的アプローチでコレクションを形成できる美術館が、候補をリストアップする際にジェンダーバランスに配慮するようになったのは大きな前進だ。

 しかし、もういっぽうのアジアのアーティストについては、なかなか難しい。というのも、(日本以外の)アジアのアーティストは日本の美術館に作品を寄贈することのメリットをほとんど感じていないからだ。収集するにしても購入しか方法はないのだが、その価格は以前とは比べものにならないほど高騰している(コレクターが所蔵する作品を寄贈してもらうという方法も一応は残されているが)。日本の国公立美術館が、今後アジアの現代美術のまとまったコレクションを形成するのは、ほぼ絶望的である。ほぼ、と留保を付したのは、大阪にある国立国際美術館が2025年6月付の館長メッセージで「近年の収集では(中略)アジアの動向に着目する」と明言しているからだ。国内美術館の常設展で、日本のアートをアジアのアートの文脈のなかで見ることの可能性は(それは、かなり重要なパースペクティブになるはずだ)、同館の今後にかかっているといっても過言ではない。

 とはいえ、女性アーティストにしてもアジアのアーティストにしても「美術史」のなかの話である。男性中心の美術史や欧米中心の美術史からは周縁化されてきたかもしれないが、完全に外部化されてしまっていたのかと言えば、そうではない。中心の力が周縁に追いやってしまったのであって、中心の在り方が変われば、それらは中心に近づくことになる。あるいは、中心/周縁という構図が解消し、脱中心化されたリゾーム的な状態になる。

 これに対して、アール・ブリュットはややこしい。そもそもアール・ブリュットは、美術史の外部に存在する、美術史的価値観では評価しえないような作品に評価を与えようとするものであった。その論理上、美術史の外部にあることが必要であり、美術史による評価は求めていないし、求め得ない。このねじれた評価基準は、アール・ブリュットの研究者やコレクターや関係者には受けいれられているものの、美術史側や多くの美術館の人々にとっては、なかなか理解できないだろう。それゆえ、アール・ブリュットは、美術史という評価基準からすると、いまなお外部であり続ける。つまり、研究や収蔵の対象外となりやすく、外部であるからこそ「欠落」として認識されることすらも難しい。

アジアで「生の芸術」を紹介した事例として、2025年のソウル・メディアシティ・ビエンナーレを取り上げる。テーマは「Séance: Technology of the Spirit(交霊会:精霊のテクノロジー)」。ナム・ジュン・パイク(1932〜2006)の作品の奥に見える幾何学的なドローイングはスイスのヒーラーのエンマ・クンツ(1892〜1963)。左のケースに並んだ茶碗は、大本教の教祖の一人である出口王仁三郎(1871〜1948)
ジョージアナ・ホートン(1814〜84)は英国の霊媒師にしてアーティスト。カンディンスキー(1866〜1944)に並んで抽象画のもうひとりの先駆者として再評価を集めているヒルマ・アフ・クリント(1862〜1944)よりもさらに上の世代に属する。2016年にロンドンのコートールド美術館で回顧展が開催された

編集部