アール・ブリュットと美術館の関係
日本で「アール・ブリュット(生々しい芸術)」は、しばしば「障害者のアート」として理解されてしまっている。確かにそのつくり手に障害のある人は少なくない。しかし、障害のない人だっている。それになにより、アール・ブリュットをそのように理解してしまうのは、1945年の夏に生まれたこの概念のもっている可能性を、見落としてしまうことになるだろう。
アール・ブリュットという言葉=概念の命名者であるフランスのアーティスト、ジャン・デュビュッフェ(1901〜85)によると、その「定義」は次のようになる。
それは芸術的文化によって傷つけられていない人たちによって制作されたものであり、知識人の場合とは異なり、模倣がほとんどあるいはまったくない作品のことだ。従ってその作者たちは、すべて(主題、利用する素材の選択、置換の方法、リズム、書き方など)を自分自身の奥底から引き出してくるのであって、古典的芸術や流行の芸術という月並みな作品からではない。そこには作者によってひたすら自分の衝動から、あらゆる面にわたって完全につくりなおされた、まったく純粋で、なまの芸術活動が見られるのだ。(*1)
「定義」というにはいささか入り組んでいて、「説明」といった感じである。なんにせよ、アール・ブリュットとは、芸術的文化、すなわち制度化された美術や文化的規範から逸脱したところで成立、あるいは生存している創造のことである。もっと単純化して言えば、アール・ブリュットは、美術史の外部で成立している純粋な芸術活動のことである。
当然のことながら、こうしたアール・ブリュットと美術館の関係は、つねに緊張関係にある。美術館とは、ある基準によって作品を選別、収集、分類、解釈し、今風に言うならば「価値」を与える制度だからだ。収集が蓄積とつながる以上、基準のなかには時間軸が生まれ、それはやがて美術史となる。そうした基準をデュビュッフェは、芸術文化の言葉で象徴させつつ、それによって傷つけられていない創作を探し、集めたのだ。
だから、印象派の歴史というのと同じ意味での「アール・ブリュットの歴史」なるものは存在しないし、成立しえない。アール・ブリュットは、つくり手同士の影響関係や時代精神の発露といったものから自由な場所でつくられていることを成立要件とするからだ。もしその歴史をどうしても書き記したいのであれば、それは、アール・ブリュットという概念をめぐる受容史のような内容になるだろう。
アール・ブリュットという概念=存在は美術館の準拠する美術史的な価値観の外部に位置する……このことがよくわかるエピソードがある。デュビュッフェは、自らが集めたコレクションをフランスの公的機関に寄贈しようとしたと言われている。しかし、当時のフランスの文化機関の制度では、それを独立したコレクションとして位置づけることができなかったというのだ。その結果、彼は寄贈先をスイスはローザンヌ市に決めた。1972年に寄贈が正式に受理され、76年、「コレクション・ド・ラール・ブリュット(Collection de I’art brut)」がオープンすることとなった。事実上は美術館であるこの施設の名前に「museum」が含まれていないのは、デュビュッフェがその概念を嫌っていたからだとされる。これは、アール・ブリュットの本義を考えれば当然のことだろう。
なお、いささかややこしいことに、デュビュッフェ自身もまた、アール・ブリュットがモダン・アートの文脈に回収されてしまうことには警戒心を持っていたと言われている。彼にとって重要だったのは、アール・ブリュットという名のもとに集めた作品群が、モダン・アートのようなほかの価値観に統合されることなく、隔離したままに評価されることであった。
*1──Jean Dubuffet, L'art brut préféré aux arts culturels, la Compagnie de l'Art Brut, Paris, 1949, no pagination. 訳は末永照和『評伝ジャン・デュビュッフェ アール・ブリュットの探求者』(青土社、2012)、118-119頁を参照。





























