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櫛野展正連載21:アウトサイドの隣人たち それでもつくり続ける「蟻鱒鳶ル」

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載の第21回は、東京・三田で《蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)》をつくり続ける岡啓輔を紹介する。

文=櫛野展正

《蟻鱒鳶ル 》の前に立つ岡啓輔
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 東京・三田にある古代中世に高野聖が開いた通行路として知られる「聖坂」。坂の中腹にはクウェート大使館などが立ち並ぶ景観のなか、マンションに挟まれるかのように聳え立っているのが、コンクリート造りの《蟻鱒鳶ル(ありますとんびる)》だ。

 この建物は着工から12年経ったいまでもセルフビルドで建設が進められていることから、「三田のガウディ」と呼ばれている。組み上げられた足場の間から見える打ちっ放しのコンクリートを眺めていると、あちこちに不揃いの文様や穴があり、かなりユニークな造りになっていることがわかる。「よくわかんない感じで開けているように思えるけど、ここからだと寝転んだ時に東京タワーが見えるんです」と声を掛けてきたのが、この建物の施工主で一級建築士の岡啓輔さんだ。

岡啓輔

 重機も使わずホームセンターの資材のみで自邸の建設を続ける岡さんは、1965年に福岡県柳川市で3人兄弟の長男として生まれた。幼少期から、絵を描けば誰よりも上手かったが、先天性色覚異常のため、細かい色の違いがわからず画家になる道は諦めた。中学卒業後は、有明工業高等専門学校に進学。1年生で建築を学んだとき、ル・コルビュジエやアントニオ・ガウディの建築に心を打たれ、建築家を志すようになった。「1年間は貯金をして社会勉強のためにサラリーマンをしよう」と決めていた岡さんは、卒業後に住宅メーカー会社へ就職。1年間京都支店で働いたが、辞表を持って出勤した朝に東京本社へ転勤する旨が告げられ驚いたそうだ。退職後から30歳になるまで、貯金を利用して毎年自転車にテントを乗せて全国各地の建築をスケッチする旅行を始めた。

《蟻鱒鳶ル》の内部。不揃いの文様や穴など独特のディテールが目立つ

 「建築家になろうと思ったら設計事務所に勤務するんですけど、仕事は大変だし待遇も悪い。みんなとは違う道を進もうと思って」と岡さんは職人になることを決意。埼玉県の工務店が運営する訓練校に1年間通った。以後は、雇われの職人として仕事を続けたが、時代はバブル絶頂期でたくさんの仕事が舞い込んできたそうだ。27歳の頃には東京・高円寺に転居。床から天井まで大きな窓のある特徴的なアパートで、窓を開けて友だちと飲んでいると、通行人がよく手を振ってくれた。それを見て「ここをギャラリーにしよう」と知人から提案され、29歳から自室の窓を使って「岡画郎」を始めた。岡さんの部屋の窓に吊した作品を、向かいの道路の街路樹に設置した双眼鏡で通行人が観るという仕掛けだ。ほかにも、窓際にアサガオを置いて、その観察日記を通行人の人に記録してもらう展示や、道路沿いの公衆電話から電話すると画廊で店番している人と電話ができる「お見合い展」など様々なユニークな企画を打ち出していった。

 そんな岡さんは、「岡画郎」へ遊びにきていた女性と1999年に結婚。奥さんから「土地を買って家をつくってみよう」と提案され、2001年には12坪の土地を購入した。

《蟻鱒鳶ル》

 「当時、重度の化学物質過敏症になって身体を壊して仕事も辞めて、自分が何をデザインしたいのかもわからなくなって、建築家になることを半ば諦めてたんです」と教えてくれた。建築家になるために、当初は結婚も我慢して努力しようと思っていたが、建築家を諦めたため結婚したというわけだ。すべてに絶望していた岡さんだったが、いざ家をつくるとなったとき、「これが自分にとって最後の建築になるのでは」と考えた。何を建てていいかわからず思案していたとき、参加したのが師と仰ぐ建築家・石山修武さんの「都市住宅を考える」というワークショップだ。ワークショップの2日目に「一番つくりたい建築を描く」という課題で素案を提出したところ、参加者の中でひとりだけ褒められた。それは「設計をしない、即興でつくりながら考えていく」という現在の《蟻鱒鳶ル》の建築に近いものだった。

岡啓輔

 土地を購入したものの、5年間空き地のままだったが、このワークショップへの参加が原動力となり、「自分でつくんなきゃいけないと思うようになったし、自分でやらなきゃ大切なものを取りこぼすと思って」と岡さんは設計図を書かないまま、05年冬に工事を着工。最初に取り掛かったのは、スコップで地下室を掘ることだった。「12坪の地下を3メートル掘るだけで、『4トンダンプ100杯の土が出るよ』と想像できない見積もりを言われたんです」と戸惑いを隠せなかった岡さんだったが、いろいろな人に手伝ってもらいながら1年かけて地下を掘ることができた。

《蟻鱒鳶ル》の地下

「掘り始めから70センチを超えると生物も何もいなくって、無垢なものに触れてるなという感じで楽しかったです」と当時を振り返る。現在、地下はコンクリート製造場として活用され、岡さんの砂利と砂を捏ねてつくったコンクリートは「200年以上保つ」と専門家の間でも話題を呼んでいる。そんな《蟻鱒鳶ル》だが、7年ほど前から再開発の波に巻き込まれ、曳家(建築物をそのままの状態で移動する建築工法)を打診されている状態だ。一時は立ち退きを宣告され、そのショックから円形脱毛症にもなった岡さんだが、曳家という状態に落ち着いたことで《蟻鱒鳶ル》の存在意義を改めて考えるようになったそうだ。

《蟻鱒鳶ル》の外壁

 《蟻鱒鳶ル》が「セルフビルド」の一言で片付けられない独特な生命感を放っているのは、岡さんが行き詰まった資本主義の次の世界を見据えているからだ。そのアイデアが即興的に具現化されていく《蟻鱒鳶ル》の造形からは、モノづくりの喜びがビンビン伝わってくる。「人はモノをつくる喜びを知っていたから猿から進化した」と語る岡さんは、日が暮れて作業を終えると、帰宅後に作業のことを思い出しながら長年履き続けているズボンの修繕を手縫いで行う。作業量が2000時間を優に超えたそのツギハギだらけのズボンは、モノづくりに人生を捧げた岡さんの生き様を物語っているようだ。「衣食住」のことを自分の手で創造する。当たり前のことのように思えるが、僕たちはこれが出来ていない。体を動かして手を動かして、それでも自分でつくり続けることの大切さを僕は岡さんから学ぶことができた。

修繕に修繕を重ねた岡のズボン