櫛野展正連載16:アウトサイドの隣人たち 箱庭カーペンター

ヤンキー文化や死刑囚による絵画など、美術の「正史」から外れた表現活動を取り上げる展覧会を扱ってきたアウトサイダー・キュレーター、櫛野展正。2016年4月にギャラリー兼イベントスペース「クシノテラス」を立ち上げ、「表現の根源に迫る」人間たちを紹介する活動を続けている。彼がアウトサイドな表現者たちに取材し、その内面に迫る連載の第16回は、ささやかな生活の場を彫り続ける、服部祐二を紹介する。

文=櫛野展正

制作中の作品を前にカメラを見据える服部
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 「2015年に金賞をいただいた作品、捨てちゃったみたいなんですよね」。電話口の言葉に、僕は面食らった。それは、審査員として毎年関わっている「島根県障がい者アート作品展」で、僕が金賞に推薦した作品だったからだ。島根県社会福祉協議会が主催するこの展覧会では、毎年県内から400点を超える作品の応募があり、公開審査が行われている。そこで心を鷲掴みにされたのが、服部祐二さんの《昭和の街並み》という木工作品。コルクボードの上に箱庭のように並べられた人形や校舎、道路標識などはもちろんのこと、物干し竿に掛けられた洗濯物までが木でつくられており、様々な物語を想起させるのが印象的だった。なんだか胸騒ぎがして、急いで作者が暮らす島根県出雲市を訪ねた。

2015年に開催された「島根県障がい者アート作品展」で櫛野が金賞に推した作品《昭和の街並み》

 服部さんは、1973年に兵庫県明石市で生まれた。3歳児健診のときに発語が遅いと指摘を受け、兵庫県立こども病院の精神科を受診。当時は「障害」ということがはっきり診断できない時代だったようで、医師から「田舎に帰って過ごされたほうがいいんじゃにゃあか」と促された。

 そこで、1978年に両親の生まれ故郷である島根県に引越した。母親は仕事をするために幼い服部さんを保育園に預けようとしたが、あまりに多動な服部さんを預かってくれる保育園はなく、小学校にある「ことばの教室」に通所させた。そこで初めて「自閉症」と診断を受け、我が子の障害を認識したそうだ。

 その頃は、民間治療や宗教の勧誘など、様々な人から助言を受けることがあった。やがて幼稚園に通い始めたが、ここでも「対応が難しいから辞めてほしい」と告げられた。「特殊な行動するからいじめる子もおりまして、おれんようなって……」と、母は唇を噛み締める。

 その後、児童相談所に通ううちに、服部さんは同じ障害がある子供の輪の中では一緒に楽しく過ごせるようになった。小学校に上がると、特殊学級に在籍。数字に興味を持ち、計算が得意になったようだ。「2つちがいの兄がおるんですけど、掛け算の練習をしているとそばで覚えてしまって、授業参観のときも先生より先に答えを言ってしまうこともありまして」と母は笑う。

 そして、服部さんがもう一つ興味を持ったのは、電車を眺めることだ。両親と頻繁に駅へ電車を見に行ったり、ちょうど列車の通過するのが見える校舎から、指折り車両を数えたりしたと言う。そのためか、作品にも電車をモチーフにしたものが多い。

 中学校卒業後は、学校からの推薦で県立の職業訓練校(現・東部技術校)の木工科へ進学した。10キロの通学路を自転車で毎日休まず1年間通ったそうだ。特に木工が好きだったわけではないが、「もともと手先が器用なほうではなかったのですが、いろいろなことを学ぶことができて、行ってよかったと思いますよ」と服部さんは饒舌に語る。

 その後は、父親が働いていた近所の塗装屋から声を掛けてもらい、就職。親子で一緒に働くようになった。2年目のとき、工事現場の5階の足場から服部さんは転落し、意識不明になってしまう。

 脳外血腫と診断され、すぐに県立中央病院の脳外科で手術を受けた。「人工の頭蓋骨を入れましたけど、痛くて暴れていました。術後もしばらく意識が戻らず、起きても前後の記憶がないみたいでした。それまで車に乗っても居眠りなんかすることはなかったのですが、あの事故以来、居眠りをするようになりましたね」と、母は当時を振り返る。

 

 40日ほどで仕事復帰したものの、翌年には、誰にも相談することなく突然辞職。それからは、近所の医療器具の会社で12年ほど働いたが、帰宅中に自転車の事故で肘を粉砕骨折し、それが仕事にも支障をきたすようになり解雇となった。「ちょうど40歳の頃で、これから先、家にずっとおるのも本人も家族も大変なので」と、2年ほど前から通い始めたのが福祉事業所で、しいたけの栽培や内職の仕事に携わっている。

作品を制作する服部

 そんな服部さんが制作活動を始めたのは、20代後半からのこと。「テレビで木彫りの番組がしとったけん、小さいものをやってみようかな」と思い立った。職業訓練校で学んだ技術を生かして、スリッパ入れや書類棚などの実用品を制作。そんな姿を見た両親は、1992年に自宅を増築した際、服部さんのために作業場を新設した。

 服部さんが制作に費やす時間は、出勤前と、帰宅して夕食を食べてから就寝するまでの間。つまり家で過ごす時間の大半だ。メジャーや計算機を頼りに寸法を測っていき、設計図を描くことはない。

 作品のテーマになっている世界は、実際に体験したものではない。田舎暮らしでなかなか遠出も難しいため、旅番組やパンフレットをよく眺めている服部さんは、「テレビの旅番組で見て、あぎゃん映像が頭に残っとった」と、それらの情景を頼りに制作を進めている。そのため、参考資料として本を買いに行くことも多いのだとか。

 ところが、苦労して制作した作品や参考図書なども、しばらく手元に置いたあとは自らあっけなく処分してしまう。理由を尋ねると、「長いこと見とるとだんだん飽きてくるけんね」とのこと。居間に飾っていた大作の木製ヘリコプターも、家族が気づかないうちに、新聞紙に包んで捨ててしまったのだとか。服部さんの部屋が、きれいに整理整頓がされているのはそういう理由なのだ。

2016年に制作した《日帰りバスの旅》。人参やキャベツなどの細部が丁寧に表現されている
《日帰りバスの旅》の全体を俯瞰する。情景的なコミュニティが描かれている

 話をうかがって再認識するのは、障害のある人には仕事や進路の選択肢が極端に少ない、ということだ。専門的な仕事や内職をはじめとする軽作業など、その能力に応じて用意されているが、まだまだ受け皿が整っているとは言い難い。

 また、いまだ評価の定まっていない作品を保存収集する場所が少ないことも、大きな問題だ。そもそも発表の意思がない人たちが多いのだが、それでも生み出された作品を保存しておくことは、本人の人生の財産となるはずだし、どこかで日の目を見たときに、別の誰かに大きな影響を与える可能性もある。

 日本の「障害者アート」は、公募展や展覧会などが乱立され、発表することばかりが奨励されている印象が否めない。しかし、作品をアーカイブすることも等しく重要で、アウトサイダー・アートに関わる側には、そうした継続的な「覚悟」が求められているのだ。