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「3分以内の映像作品」は2021年の「マイクロポップ」になりえるか? 布施琳太郎評「Try the Video-Drawing」

キュレーター・西田編集長とアーティスト・林千歩によって企画された「Try the Video-Drawing」(TAV GALLERY)は、すべての出展作品が「3分以内(推奨)」という制限により「映像で何ができるか」という課題に8作家が対峙する展覧会となった。本展をアーティストの布施琳太郎が「マイクロポップ」と紐付けてレビューする。

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世界と対峙する方法。清水穣評 千葉正也個展、松田啓佑「捨てていた意識は目に当たる」展、顧剣亨「APART OF THERE IS HERE」展

紙や文字、鏡の反映など、絵画のレイヤーを意識させる要素を平面に描き込む千葉正也、キャンバスや陶器に力強いストロークで形態を描く松田啓佑、そして写真を通して視覚的無意識に迫ろうとする顧剣亨(コ・ケンリョウ)。3人のアーティストの実践は絵画の歴史のなかにどう位置づけることができるのか、清水穣が論じる。

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新たな形態の芸術祭から広がる多孔世界。椹木野衣評 「梅田哲也 イン 別府『O滞』」展、「虹 夏草 泥亀 佐藤俊造の全貌展」

ひとりのアーティストの個展形式で行われてきた大分県別府市の芸術祭「in BEPPU」。今年は梅田哲也が、街中を回遊しながら音声を聴く体験型の作品を発表した。コロナ禍における新たな芸術祭のかたちを提示した本展を、同時期に別府で開催された「虹 夏草 泥亀 佐藤俊造の全貌展」とあわせて椹木野衣がレビューする。

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「原爆の図」と重ね合わされた、東京大空襲の記憶。毛利嘉孝評「藤井光 爆撃の記録」展

2016年に発表された藤井光の《爆撃の記録》。その別バージョンが、原爆の図丸木美術館で特別企画として展示された。東京都現代美術館での「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展に出品された本作は、東京大空襲の記録をめぐる「規制」を浮き彫りにするものだった。丸木美術館で常設展示されている「原爆の図」と、《爆撃の記録》が同じ場所で展示されることから見える問題提起とは。社会学者の毛利嘉孝が論じる。

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それはあなたが見た光。飯岡陸評 「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」

身体の表象を軸に、性や人種、人と植物や機械、有機物と無機物などの境界を問う作品を制作する、写真家・細倉真弓の企画による展覧会「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」がTakuro Someya Contemporary Artにて開催された。石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、そして細倉自身が参加し、一人称的な視点とその境界を問いかける本展を、キュレーターの飯岡陸がレビューする。

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想像力を喚起する「美術」の根源への回帰。清水建人評「3.11とアーティスト:10年目の想像」展

東日本大震災の翌年、水戸芸術館で「3.11とアーティスト:進行形の記録」展が開催された。そして今年、再び同テーマで企画された本展では、震災と、当時/現在の我々をつなぎ直すような作品群がみられた。この10年、震災に向き合う作家や作品表現にどんな変化が起きたのだろう。せんだいメディアテークで学芸員を務める清水建人が前展と比較しつつ、レビューする。

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政治やメディアが越境する磁場としてのアスリートの身体。中島水緒評 「東アジアを駆け抜けた身体―スポーツの近代―」展

日本植民地期の台湾人アスリート、張星賢(ちょう・せいけん)の競技人生に焦点を当て、日本と東アジアの近代史を見つめ直す「東アジアを駆け抜けた身体―スポーツの近代―」展が国立歴史民俗博物館にて開催された。スポーツの歴史のなかから浮かび上がるアスリートのサインとは何か。美術批評の中島水緒がレビューする。

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食べることと身体をめぐる芸術の政治。清水知子評 約束の凝集 vol.2 永田康祐「イート」展

長谷川新をゲストキュレーターに迎えた、gallery αMでの2020〜21年度プロジェクト「約束の凝集」。その第2回として、永田康祐の個展「イート」が開催された。食べるという行為や、それに応じて組織される主体について、そして「口」についてを考察した本展を、文化理論家の清水知子がレビューする。

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「作家」と「学生」のはざまで、卒業制作展の可能性。長谷川新評「Sweep-Space-Surface」展

多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コースの卒業制作展として、BankART(横浜)にて「Sweep-Space-Surface」展が開催された。作品展示以外にも多くのプログラムが組まれた本展のあり方について、インディペンデントキュレーターの長谷川新がレビューする。

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芸術祭のオルタナティブとジレンマ。高嶋慈評「梅田哲也 イン 別府」

国際的に活躍する1組のアーティストを招き、地域性を活かしたアートプロジェクトを実現する個展形式の芸術祭「in BEPPU」が2020年12月から3ヶ月間開催された。5回目となる本年の招聘作家は梅田哲也。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、集客型の大型芸術祭が中止するなか、本展はポストコロナにおける新たな芸術祭モデルとなり得たか、また、地域芸術祭としての批評性はいかなるものだったのか。高嶋慈がレビューする。

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暗渠化された渋谷の川を滝に。 檜山真有評 光岡幸一「もしもといつも」

コロナ禍でのオリンピック開催とさらなる都市開発に揺れる東京。アーティストの光岡幸一は、原宿・BLOCK HOUSEでの個展で、暗渠化された渋谷の川を滝としてギャラリーに取り込み、会期中、その水の飛沫で写真作品やオブジェに変化を与えつづけた。その光景から浮かび上がる人間の営みや都市の機微とはいかなるものか? キュレーターの檜山真有が論じる。

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世界の理への飽くなき探究。荒井保洋評 「植松奎二 みえないものへ、触れる方法 - 直観」展

作品を発表し始めた1969年から現在まで、多様な形態の作品を通して、重力、引力といった見えない力の法則から世界の構造・存在・関係を一貫して探究してきた植松奎二。芦屋市立美術博物館での本個展では、1年をかけて同館の空間と構造を読み解き、ここでしか生み出せない作品を発表した。この世界を新たに認識する方法を探る本展について、滋賀県立美術館学芸員の荒井保洋が論じる。

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幻影を呼び込む空間。椹木野衣評 冨安由真展「漂泊する幻影」、青木美紅「1996120519691206」展

KAAT神奈川芸術劇場の空間をインスタレーションへと変貌させた冨安由真の「漂泊する幻影」展と、「ヘルマウス」と呼ばれる悪魔から着想を得た新作を発表した青木美紅の「1996120519691206」展。ふたつの個展について、亡霊や幻影の気配を呼び込む装置として位置づけながら、椹木野衣が論じる。

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現代のポップ・アートに見る二重性とユーモア。清水穣評 カスパー・ミュラー「In and Out」展、臧坤坤「Double Screens」展

オブジェや平面、既製品を組み合わせ、ユーモアや皮肉を込めたインスタレーションを手がけるカスパー・ミュラーと、絵画、オブジェクト、そして画中にあるものに等価な関係を構築しようとする臧坤坤(ツァン・クンクン)。現代のポップ・アートをめぐる二元論と、同時期にチューリヒで開催された両者の個展に見られる二重性について、清水穣が論じる。

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「運動史」としての写真史 若山満大評「「写真の都」物語 ―名古屋写真運動史:1911-1972―」

名古屋市美術館にて、2月〜3月に開催された本展では、1920年代に日本のピクトリアリズムをけん引した〈愛友写真倶楽部〉や写真家・東松照明を生んだ都市、名古屋の写真表現の展開に焦点をあてた。同地名古屋に根ざす美術館で、その物語はどのようにつむがれたのか? 東京ステーションギャラリー学芸員の若山満大がレビューする。

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