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2021.6.10

世界と対峙する方法。清水穣評 千葉正也個展、松田啓佑「捨てていた意識は目に当たる」展、顧剣亨「APART OF THERE IS HERE」展

紙や文字、鏡の反映など、絵画のレイヤーを意識させる要素を平面に描き込む千葉正也、キャンバスや陶器に力強いストロークで形態を描く松田啓佑、そして写真を通して視覚的無意識に迫ろうとする顧剣亨(コ・ケンリョウ)。3人のアーティストの実践は絵画の歴史のなかにどう位置づけることができるのか、清水穣が論じる。

文=清水穣

松田啓佑「捨てていた意識は目に当たる」展より、ともに《untitled》(2021)
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面と線と点

隔世遺伝としての千葉正也

 コロナ鬱を吹き飛ばす展覧会3題。
 まずは当代の人気画家、千葉正也の回顧展。すでに批評も出て評判の高いこの展覧会について屋上屋を重ねる気はないが、私が千葉の絵画について自明だと思っていたことが、意外に対談や解説や批評文のなかに出てこないので、ここに記す。

 スヴェトラーナ・アルパースの『描写の芸術』は、西洋美術史を勉強する人の必読書として知られる。彼女は、オランダ絵画における遠近法の変質を論じて、だまし絵やアナモルフォーズを題材に「レイヤー」という意識の誕生を跡づけた。遠近法は、1つの視点と世界を結ぶ無数の直線でできた多角錐形を、1枚の透明な面(レオナルドダ・ヴィンチの「ガラス板」)でまっすぐに切断し、その切断面を窓として、窓の彼方に世界を再現する技法である。我々はその窓を通して画家が創作した絵画世界を鑑賞する。この技法が北方に伝わったとき、北の人々はその技法の本質ではなく、投影という技術だけを吸収した。彼らは窓の向こうの世界ではなくて、窓ガラスを見たわけである。絵画とは、1つの視点から構成される1枚の透明な面──レイヤー──なのだから、任意の視点に応じて様々な投影面が生まれ、つまり様々な絵画世界が可能となる。絵画は現実の再現ではなく、支持体上の画面であり、その裏がある。一画面のなかに複数のレイヤーが共存可能で(ハンス・ホルバインの《大使たち》[1533])、つまりそこには複数の視点=複数の主体が並びたち、どれが真の主体であるかは原理的には決定されない、と。

 不確定な主体の不安は、モチーフを日用品(自分の日常を形成する殻)や、自分の地位を誇示する物体(自分の来し方、業績)へと向かわせた。そこからこの時代を代表するジャンルが発生する。前者からはだまし絵、後者からは静物画が生まれた。だまし絵は、身の回りの物を精密に描き、遠近法を逆用し(斜めから見ると正面に見える四角形など)、「精密に描き」「遠近法を逆用する」舞台裏を精密に描き……次々と「これは現実」と「これはフィクション」を繰り返す。紙やキャンバス、そこに書かれた文字や筆跡、ガラスや鏡の反映、ワッペンやシールや画中画など、レイヤーを意識させるものを描き込むことで、絵画とはレイヤーのコラージュだという認識を、自己言及的に表現するのである。他方で、時の止まったような密やかな空間で、画家の技法のかぎりを尽くして描かれた豪華な静物画は、奴隷貿易で富を得たフランドル商人の自画像と見なせるが(*1)、「ヴァニタス」の徴のもとにある。光に満ちあふれた「豊かな朝食」は「死と滅び」に裏打ちされている。それ以外にもだまし絵や静物画の数々のモチーフはアレゴリーに満ち、絵画の意味を1つに収斂させない。

千葉正也 私たちの神たちの神たちはあなたたち 2018 キャンバスに油彩 53×45.4cm ジョセフ・パン氏蔵(香港)
(C) Masaya Chiba Courtesy of ShugoArts

 レイヤーとコラージュの意識、表面の質感への偏執的なこだわり、自己言及性、ものの存在や価値に対する懐疑、複数の視点=主体性から生じる不安と寄る辺なさ──すべて千葉作品に該当し、該当しない要素が見当たらないほどである。千葉正也の絵画は、17世紀オランダ絵画から400年後の隔世遺伝である。デジタル技術が視覚芸術の単位をレイヤーからピクセルへと移行させつつある時代に、レイヤーという制度の最初と最後が、ウロボロスの蛇のように出会っているのだ。

松田啓佑の線と顧剣亨のピクセル

 ジョン・ケージ風に「何も描くことがないので、そのことを描いている」と呟けば、大多数の画家は頷くだろう。「この絵は(主格)何を(対格)表象しているのか?」──この問いに答えられるならば、それは意味するもの(主格)とされるもの(対格)が組み合ってできる表象システムに回収されることである。何か(風景、人物、静物=具象/観念、感情、雰囲気=抽象)を描くような画家は「キッチュ」であり、体系に安定回収される。対して、絵画は他ならぬ絵画自体(その本質)を描くべきという「アヴァンギャルド」な画家は、主格と対格を圧縮(絵画は=絵画を)することで、システムに回収されない絵画自体を表出する。言い換えれば「アヴァンギャルド」は「システムvs.その外部」という構図に基づいていた。この構図は、「その外部」をこそ統合(インテグレート)して回転し続ける社会、すなわちジャン・ボードリヤールが理論化した「インテグラルな現実=integral reality」の出現により衰退していった。この現実は、もはや表象ではなく「シミュラークル」によって構成される。「キッチュ」も「アヴァンギャルド」も、「外部」も「リアル」も、すべてはシミュラークルである、と。現在の絵画は「それ以降」の話なので、どうしてもシニカルに傾くのである。

 が、松田啓佑の絵画は「それ以前」の話なので、ほかの画家たちから遠く離れて絶句するほど明るい。それは主格対格の分化に先立つ自然世界の「非感性的類似」として生じる形態を、直截に表出したものである。非感性的類似は、新発見の元素のようにすぐに消えてしまうので、作家はそれを速やかに何かしらに──絵画やオブジェに──「変換」して表出する、と。激しい筆致はここに由来し、画家の感情とは関係がない。松田は現代において「描くべきもの」を持つ希有な画家のひとりということになろうが、その作品に技法的関心や審美的計算は目立たず、そもそも先述のような文脈で絵画であろうとしていない。ひたすら丸筆や平筆の運動に「変換」された(松田は「塗る」ということをしない)、単純ではあるが曰く言いがたい形態がキャンバス上に投げ出され、そして轆轤(ろくろ)で引き上げた円筒形や円錐形(おそらくセザンヌによる)に切り込みを入れる行為に「変換」された形態がオブジェとして、置かれるだけなのである。

松田啓佑 容れ物–1 2020 キャンバスに油彩 73×91cm

 ベンヤミンの「非感性的類似」は、言葉とその意味の関係を表していた。松田の「絵画」も、甲骨のかわりにキャンバスや陶土に刻まれた、生まれたての象形文字なのではないか。つまり、現代絵画の文脈ではなくて現代書の文脈に、文字ではなく絵画の側から、とは言え、ストロークの類似に頼った故篠田桃紅とはまったく異なるレベルで、接近しているのだ。

 顧剣亨は、複数の写真から1枚のイメージを生み出すdigital weaving という手法で注目された新人。ヴァルター・ベンヤミンの『写真小史』のなかで、有名な「意識の織り込まれた空間の代わりに、無意識の織り込まれた空間が現れる」という箇所からの発想だろう。金糸を織り込んだ布のように、世界には意識も無意識も織り込まれていて、後者はカメラによって現れる、と。つまり世界は意識と無意識の二層構造ではないのだ。同様に、顧の写真も、多重撮影ではない。高層ビルからの東西南北全方位の全景をピクセル単位で1枚に「織り込んだ」作品は、いわば「全世界」の比喩であり、我々の全精神の比喩でもある。その1枚の面=全精神は、刻々と、見た部分と見なかった部分へ、意識と無意識へ、分割され続けている。意識とは、現在時におけるこの分割が過去にしていく(見た、見た……)世界にほかならない。つまり意識には現在という時制がない、これこそ「視覚的無意識」の要点だが、本展はそこまで届いていない。そのほか、暗い石炭の山で、個々の石炭の断面が星のようにひっそりと光る新作も美しい。

顧剣亨 Shanghai Center  2019 インクジェットプリント 200×300cm

*1──以下を参照。Julie Berger Hochstrasser, Still Life and Trade in the Dutch Golden Age(New Haven and London: Yale University Press, 2007), p.259, 263.

『美術手帖』2021年6月号「REVIEWS」より)