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2021.6.8

生物へのまなざしと「信用」のシステムを作品化する。黒沢聖覇評 AKI INOMATA「貨幣の記憶」展

MAHO KUBOTA GALLERY(東京・神宮前)にて、AKI INOMATAによる個展「貨幣の記憶」が開催された。生物との協働で知られる作家の新作が発表された本展を、エコロジーなどをテーマに活動する若手キュレーターがレビューする。

黒沢聖覇=文

「貨幣の記憶」より 2018- 撮影=AKI INOMATA
©︎AKI INOMATA / Courtesy of MAHO KUBOTA GALLERY
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虹色に輝く貨幣のキメラ

長旅から帰国し、空港で両替をする。ひさしぶりに手にした日本円の紙幣は、どこか懐かしく、そしてなんだか “とてつもなく昔のもの” のように思われた。日々、私たちは考古遺物を手にしている。そんな妄想をして、くすりと笑った。日常の支払いはSuicaやクレジットカードであらかた済まされている。両替した紙幣は、しばらく私の長財布のなかで悠々と眠りつづけた。そこには福沢諭吉が描かれていた。
貨幣の化石をつくりたい。
そう思ったのは、国境を超えて、両替をしたあの日のことがきっかけになっているのかもしれない。紙幣に描かれた肖像を取りだし、真珠貝の核としてそこに挿し入れた。古くから貝殻は加工され、装飾品として用いられたり、貝貨として交易で使用されてきた歴史がある。紙幣の肖像を貝殻に入れ、海へかえす。それは、貨幣の歴史を掘りおこすと同時に、生物種の存在にたいする内省でもある。(本展に向けた作家によるステイトメントから抜粋)

 この作家ステイトメントに描写される両替の経験は、多くの人にも共感できるものだろう。外国にしばらく滞在し帰国する際、半端に残った紙幣やコインを両替することなく、またいつか行くときのために取っておこう、などと考え、家の引き出しに保管する。そして、いざ次の機会が訪れたときには、保管場所も忘れてしまっている。あるいは何年も経って、ついにその通貨を再び使用できるチャンスが訪れたときには、その紙幣そのものが廃止され、交換可能性を失っている、ということも起こりうる(*1)。引き出しに入ったまま使えなくなった貨幣はどうなるのだろうか? このような身近にあるスペキュラティブな疑問が本展の素朴な出発点だろう。

 本展タイトルにもなっている「貨幣の記憶」と題されたシリーズは、真珠貝に福沢諭吉、エリザベス女王、ジョージ・ワシントン、マルクスなど、世界的な通貨を象徴する人物像を核として挿入し、その核の表面を真珠質が覆うことで、真珠化した肖像が貝殻から浮き上がる。展示室内では、この真珠貝の作品が実際に海の中に沈んでいく様子を美的に示す映像が、マルチ・チャンネルで流されている。本展では、この真珠貝の作品表面のディテールや光沢を撮影した写真作品、映像、サンゴ、水中で録音された音が、真珠貝の作品と合わせて、ひとつのインスタレーションとして構成されている。本展が提示するのは、この真珠貝の作品が何百年、何千年、何万年、というスケールのなかで、海を漂い、沈澱し、「貨幣の化石」となっていく、という物語である。

「貨幣の記憶」展展示風景 撮影=木奧恵三
©︎AKI INOMATA / Courtesy of MAHO KUBOTA GALLERY

 「生きものとの共同作業」を自身の方法論の軸におくAKI INOMATAは、人類史・貨幣史における「伴侶種(companion species)」(ダナ・ハラウェイ)であるとすらいえる真珠の生成そのものプロセスを通して、貨幣の歴史(記憶)に対するメタレベルの視点と、真珠質という生物そのものが生み出すマテリアリティの双方をパラレルに取り扱うことなく、複雑な絡み合いとして提示する。歴史的な肖像が真珠化したモノとしての貝殻は、記号としての貨幣だけではなく、真珠特有の複雑な虹色の光沢による「キメラ的視覚( chimerical vision)」を示している。本作は「表象(representation)」として鑑賞者に提示されているのではなく、「多岐にわたる実体と意味が互いをかたちづくる物質的 -記号論的な結節点」としての「形象(figure)」であると言えるだろう。ハラウェイが述べるように、「形象」はつねに具体的な物語を理解しようとする人々を誘惑し続ける(*2)。まさに「貨幣の記憶」を形象化させ、その化石が遠い未来に再発見されるという物語を想像し、解釈せんとする鑑賞者の関心や欲望を引き込むことに、本展は成功している。

「貨幣の記憶」展展示風景 撮影=若林勇人
©︎AKI INOMATA / Courtesy of MAHO KUBOTA GALLERY

 同時に、近年多くのアーティストによって試みられる「複数の生物種(multi-species)による協働」の実践の一例として、本作を単純に理解するべきではない。当たり前ではあるが、私たちが例えば、虹色に輝くマルクスの肖像の真珠を目撃するとき、それには同時に真珠貝の生命としての「死」が結びついている。真珠貝にとってこの協働はすなわち死を意味するのである。ここでは、「マルクスの亡霊」(ジャック・デリダ)と「真珠貝の亡霊」が、その存在論的な差を問われる前に、真珠の光沢作用である「オリエント効果」によって揺らめきながら、「貨幣の化石」の物語としてある種オリエント化され、アートワールドの市場の現実へ向かっていく(*3)。「人新世」の言説のなかで複数の存在論が多様に議論される今日、多くのポストヒューマン理論が、人間(Human)と非人間(Non-human)の分類を乗り越えようとするいっぽうで、生命(Life)と非生命(Non-Life)の境界はなんとか維持しようともがいている。このような状況下で、生命と非生命の分割(生と死の分割)の差異ですら「生物種-貨幣-肖像-化石」という経済・地質・考古学的なアッサンブラージュへと変容させてしまう本作は、私たちがむしろ「地球的/地質的存在論(geoontology)」(エリザベス・A・ポヴィネッリ)の時代へと突入していることを示唆しているかもしれない(*4)。

「貨幣の記憶」より 2018- 
©︎AKI INOMATA / Courtesy of MAHO KUBOTA GALLERY

 いっぽうでこのような点は、人新世に関わる美術(視覚)表現の傾向のひとつとして分類することも可能である。大森俊克は、この傾向は3つに分類されるとし、そのうちの1つとして、思弁的実在論などの哲学的潮流を背景とした人類滅亡後の世界を扱う表現や、「地層」への介入を視座とする作品を挙げている(*5)。本展もまたこうしたグローバルアートのトレンドとして端的に分類することも可能である。とりわけ、真珠貝の作品そのものよりも、それを海へと沈めるマルチチャンネルの映像による物語を中心に構成されている点により、本展はこうした言説のなかで安易に還元されてしまう可能性がある。例えば、制作物を海に沈め、後の時代に発見されるという物語は、ダミアン・ハーストが2017年にヴェネチアで行った個展「Treasures from the Wreck of the Unbelievable (難破船アンビリバボー号からの財宝)」(*6)によって、圧倒的な予算規模とスケールで、作家の生み出した虚構の一大叙事詩として、グローバルアートワールドのなかで決定的に提示されている。

「貨幣の記憶」展展示風景  撮影=AKI INOMATA
©︎AKI INOMATA / Courtesy of MAHO KUBOTA GALLERY

 しかし、INOMATAのプロジェクトは、こうしたスペキュラティブ・スペクタクルよりもむしろ、「生き物との共同作業」が結果として生み出した小さな真珠貝の「死」から生まれるエステティクスと、貨幣システムが生み出す私たちの身近な現実との絡み合いへの想像力に着目している。真珠貝の作品が示す幽霊的なマテリアリティや幻想的な光沢は、私たちの他の生物種へのまなざしとそれをとりまくシステムへの「信用」についてのゆらめきつづける問いを、内省的に促している。本作には、人新世におけるアートの潮流として言説化され分類される前段階における、モノとなってしまった真珠貝が語る物語がすでに示されているのであり、本展でもその物語=マテリアリティの生成プロセスの複雑さに鑑賞者がより注目できるようなアプローチもあったのではないだろうか。マクロなグローバルアートの言説へと端的に回収されることなく、他の生物種とのコンタクト・ゾーンのなかで生まれるミクロな物語を拾い続けていくことで、INOMATAによる本プロジェクトが今後さらに発展していく可能性に期待したい。

*1──こうした事態はなかなか想像しづらいが、例えば2016年のインドでは、500ルピー紙幣と1000ルピー紙幣がほとんど猶予期間もほとんどなく突如として廃止された。インド国内では自殺者が生まれる事態にまで至っており、筆者自身も何年も保管していたインドルピー札が突如として価値を失った経験を現にしている。
*2──ダナ・ハラウェイ『犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクス』高橋さきの訳、青土社、2013年、11-12頁。
*3──この《貨幣の記憶》シリーズの価格設定はそれぞれ、福沢諭吉が円で、エリザベスⅡ世がポンドで、マルクスがユーロとなっており、これには作家のユーモアと交換価値へのコンセプチュアルな問いの双方が含まれている。
*4──この観点については、Elizabeth A. Povinelli, Geontologies: The Concept and Its Territories, e-flux journal #81 – april 2017(https://www.e-flux.com/journal/81/123372/geontologies-the-concept-and-its-territories/ [2021/05/25最終アクセス])を参照せよ。
*5──大森は、人新世に関わる美術(視覚)表現について、以下の3つの傾向を挙げている。(1)主に資本主義によって加速した環境破壊や生物多様性などを、両者の合意形成による解決を模索しつつ主題化するもの。(2) 思弁的実在論のような哲学的潮流をひとつの時代精神として、人類滅亡後の世界を扱う表現や言説。または、資源採掘や廃棄物による「地層」への介入を視座とする作品。(3) 環境保護の思想を礎石としつつ、マイノリティや労働者の抑圧への抵抗を目指す、アクティヴィズムの実践。(大森俊克、「人新世をめぐる『美術』: T・J・ディーモスの思想を中心に」、『美術手帖』2019年2月号)
*6──邦訳は筆者による。