コックと貴族、そのフォークと口について
永田康祐の個展「イート」は、映像作品《Digest(Translation Zone)》(2020)と新作《Purée》(2020)を中心に構成されている。どちらも料理がつくられる工程をテーマに展開され、作品を見る私たち自身の立ち位置を撹乱するという意味において、きわめて批評的で政治的な作品だ。
まずは《Digest(Translation Zone)》から見てみよう(*)。タイトルの《Digest》にはTranslation Zoneを「要約する」という意味と「消化する」というふたつの意味が折り重なっている。《Digest(Translation Zone)》は、いわば本展のキュレーター長谷川新のナレーションによって「要約=消化」されることで誕生した「新作=共作」でもある。ちなみに《Translation Zone》というタイトルは、エミリー・アプターの『翻訳地帯』(2018)に由来する。アプターによれば、「翻訳」とはつねに「翻訳地帯」でしかありえず、「地帯(ゾーン)」とは「翻訳—中」である場所を示す。
《Digest(Translation Zone)》は、家庭料理と言語を「翻訳」という観点からとらえ直すことで、日常的実践のなかで創出される異種混交的な文化の摩擦とその豊かさを浮き彫りにする。淡々と調理される料理の映像を背景に、人類学者クロード・レヴィ=ストロースの「料理の三角形」、ロースト抜きのローストビーフ、Googleの自動翻訳にみる摩擦なきグローバル言語の欲望から、英語に翻訳するとfried riceと称されるチャーハン、コムチェン、ナシゴレンといった日々の生活のなかで獲得された言語と料理へと話は展開する。
舌の上で摩擦をおこしながら複数の言語や料理が混在する翻訳地帯。たとえば「シングリッシュ」やシンガポール料理がそうだ。いや、そもそも私たちが日常的にクックパッドを見ながら「工夫」する家庭料理のレシピも、じつは食材の不足や安価といったかなり俗な理由によって、日々大胆に改変された日常的な「翻訳」実践の賜である。それは「正統」で「純化」された言語/料理を疑問に付し、私たちの文化を豊かにしているのが、レヴィ=ストロースの言う「ブリコラージュ」、つまりありあわせでなんとかやっていく技芸であるということを示している。
これらの映像は《Digest》に織りこまれたいくつもの小説の引用とともに私たちを新作《Purée》へといざなう。手に取った蛸の足を食いちぎり咀嚼しながらその旨味に身を任せる松浦理英子の『微熱休暇』(1987)の一節、そして本谷有希子の『異類婚姻譚』(2016)のくだり──矯正したての歯で何も食べられない妻に、夫が自ら咀嚼したものを彼女が感謝しながらたいらげたという、夫だけが覚えている新婚旅行の記憶──がそうだ。
では、《Purée》はどうか。こちらは人間の身体とテクノロジーの歴史的関係性から食をめぐる政治を浮き彫りにする作品である。「食事とは、肉体と物質のぶつかり合いであり、逃れようもない生理の場である」と永田は言う。文化的に洗練された料理は、食事につきまとう、ある種の野蛮さを覆い隠すために推し進められた。たとえば、主人が同席者に巨大な肉塊を切り分け、客にヒエラルキーを作り出すデクパージュは「象徴化された狩り」として昇華され、それを成立させるためのさまざまな処理は地下の調理場へ隠蔽された。
とはいえ、何よりそれを極めたのは17世紀後半に起きたピュレとムースの流行である。ピュレは歯で噛み砕くという肉体的行為なしの食事を可能にした。調理具は、卑しく音を立て、肉を貪る歯や顎を代替する「外化された身体」として登場し、ヒトは「動物の口(グール)から人間の口(ブーシュ)へと移行した。
「食べる主体」は身体を外部化することで「純化」され、食事は味覚という肉体的な感覚ではなく、視覚という精神的で高貴な感覚に訴えるものとなった。こうして食物を食いちぎり噛み砕くという、煩わしい行為は調理場へ押し付けられ、食べることは「目で鑑賞し舌で味わう」精神的な行為へと転換された。「外化された身体」としての調理器具。「外化された生理機能」としての調理。そして貴族の「純化された身体」を形成するために無意識の場たる調理場に運び込まれた調理人の身体。
身体の外部化はまた、ヨーロッパ人の身体そのものを物理的に変えた。近代以前、食物を手で掴み、歯で噛みちぎっていた食事法は、18世紀になるとナイフとフォ—クによって代行される。食物に触れるのは人間の手ではなくフォークであり、噛みちぎるのは人間の歯ではなくナイフになった。人間の口は切歯咬合から被蓋咬合へと物理的な変化を遂げた。一見すると「進化」とも思えるこの変貌は、しかし、ナイフとフォークなしに、あるいは調理器具と調理場なしに「食べる主体」がけっして自律して存在することはありえないということを示している。
「食べる主体」をめぐる人間とモノ(外化された身体)との関係は、ヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」を想起させる。奴隷は自らの生存をかけて自由を手放し、主人に服従し、主人のために労働し、肉体に固執する。いっぽう、主人は奴隷を働かせ、肉体から離れ、奴隷の生産物を消費することで自由を享受する。だが、主人の自由は奴隷労働に依存することなくしては成り立たない。意識なしの身体=肉体としての奴隷と、身体=肉体を否認する主人。両者はじつは、ふたつでひとつの主体のプロセスをなしているのだ。
とはいえ、ここで改めて注目すべきは、食べる主体と食べられる対象、人間の身体と食物とを「媒介する」口という身体器官だろう。「口」は、人間が世界に外在する主体ではないことを曝くだけでなく、集合的な身体を構成し、「私の口」を「私たちの口」に拡張し再編する「技術」としての機械である、と永田は言う。
《Purée》のなかに、意表を突くように2011年9月のオキュパイ・ウォール・ストリート(以下、OWS)のデモの光景が映し出されるのはそのためだ。OWSの拠点となったズコッティ公園は私有地であり、拡声器の使用は禁止されていた。そこで人々が編み出したのがヒューマン・マイクロフォンと呼ばれる手法である。
ヒューマン・マイクロフォンは、発言者の口から発せられた声をたんに拡声し、増幅するものではない。そこには発言者と聞き手という関係は成立しない。参加者は、発言者の口から発せられる言葉を吟味し、その言葉は微細な摩擦、遅延、ズレ、亀裂を伴いながら、集団的な主体を出現させる。声をあげる集合的主体は、複数の摩擦を伴いながら、その都度混淆的な主体を形成する。口はこうした関係的なプラットフォームを構成するための器官=機械でもあるのだ。
けれども、20世紀を迎えると、地下に隠蔽されていた調理場はキッチンとして資本主義的な豊かさを物語る「欲望と消費の場」へと変貌を遂げる。1970年にはフードプロセッサーが誕生し、かつて調理場に追いやられた肉体は、システムキッチンとして陽の当たる場所に躍り出る。ピュレは、17世紀的のように特権階級の才女(プレシューズ)のものではなくなり、中流階級の休日の娯楽を彩るものとなった。ピュレは、生理機能の否定ではなく、その内部に多種多様な物質を混淆させながら「健康食」として私たちの目の前に現れ、新たな調理器具は私たちの外化された口として自他の境界を攪乱することになる。
永田によるこの一連の映像エッセイは、作家本人が、淡々と包丁を研ぎ、巧みな手さばきで肉を切り、揚げ、美しく皿に盛り付けていく調理の工程とともに語られる。私たちはスクリーンを前にその光景を視覚的に愉しみ、ナイフとフォークで口に運ぶ「食べる主体」のごとく消化していく。
だが、私たちはここであることに気づかざるをえない。それは、食材をすり潰す使用人とそれを食べる貴族の関係が、《Purée》を制作=調理する作家とそれを食べる鑑賞者という関係に変換可能なものであるということだ。
さらに、受付の奥に潜む1室に足を踏み入れると、そこには本展の食材ならぬ素材のテクストと映像の言語が備えられており、鑑賞者である自分が、いつのまにか調理場/キッチンに佇んでいるかのような感覚を覚える。
このとき私たちは、神田の一画に佇む建造物の地下で披露されたこの展示空間は、それ自体が食をめぐる巨大な実験装置であり、自分たちが、永田に提供された「イート」という食の翻訳地帯のなかに、入れ子のようにすでに組み込まれていたことを知るのである。
*──《Translation Zone》は「あいちトリエンナーレ2019」に出品され、現在21_21 DESIGN SIGHTで開催中の「トランスレーションズ展:「わかりあえなさ』をわかりあおう」(2020年10月16日〜6月13日)においても展示されている。