作品と空間に、観客の「直観」がチューニングされていく
視覚は人の五感のなかでもっとも多くの情報を処理するがゆえに、大抵私たちは「見ること」あるいは「見えるもの」に多くを頼って生活をしている。いっぽうで「見えないもの」に対しては、基本的に無頓着であるか、あるいは脊髄反射的に恐怖感を覚えるかもしれない。
芦屋市立美術博物館で開催された「植松奎二 みえないものへ、触れる方法−直観」展は、目に見えず、普段私たちがさほど意識しない、この宇宙の普遍的な理を手がかりにした展覧会である。
植松は1969年の個展以降、国内外でコンセプチュアルな作品から大型のパブリックアートまで、様々な作品を生み出してきた。これらの作品群に通底するテーマは重力や引力などの普遍的な力をいかに作品を通して認識させ、それによって成り立つ世界との関係性を問うことであり、その意味では展覧会のタイトルは植松のこれまでの制作そのものを示している。
今回の展覧会のために、植松は芦屋市立美術博物館の空間と構造を1年にわたって読み解き、作品を制作していった。そのため出品されている作品の多くが新作となっている。
1991年に開館した芦屋市立美術博物館は坂倉建築研究所によって設計され、非常にユニークな構造をしている。入口から館内へ入ると円形の大きな吹き抜けがあり、壁に沿った螺旋状の階段を上った2階に、円形ホールの両端に羽を広げるように2つの展示室がある。それぞれの展示室は大きさが異なり、特に特徴的なのは展示室の長辺側の壁は大きな弧に沿ってわずかに湾曲していて、短辺側は長辺と直交せず、扇形の平行四辺形と台形のかたちになっていることだ。その他廊下部分の採光や梁の意匠なども凝ったつくりになっている。
エントランスホールの中央には、ブロンズの球体と吊るされた石の間に隕石が挟まった《摩擦のあいだ──宇宙からの贈り物》が展示され、湾曲した壁面には大きな綿布に石の重さによってしわがよった《Triangle──Stone/Cloth》がある。それと向かい合うように鉄のテーブルに穿たれたすり鉢状の凹みに水がためられ、その横に大理石の多面体が配置された《まちがってつかわれた机──隕石孔・結晶・水》が展示され、水面の写真を反転させた《波紋Ⅲ》が2階へ向かう階段の壁にかかっている。
階段を上がると様々な場所のポストカードに浮かぶ石が書き込まれた《浮く石の記憶》《浮く石−Miracle》、展覧会のタイトルやコンセプトを検討している際の走り書きなどがそのまま展示された《言葉》が展示される。2階の美術館正面に向かってガラス窓がパノラマに広がるロビーには、「みえないものへ、触れる旅」と題された植松のテキストがある。
第1展示室は大型の新作インスタレーション《見えない力―軸・経度・緯度》を中心に展開され、第2展示室はガラスケース内に展示されたドローイング《枝とともに》、それが立体化された《空間に描かれたドローイング》がメインで展開されていく。
まず、展覧会全体を見るうえで特に興味深かったのは、展覧会のタイトルを固めていく植松の思考がそのまま表れている《言葉》だった。エントランスホール2階の通路の壁に貼られたこれらの紙片には、頭に浮かぶ言葉がそのまま走り書かれ「みえないものに触れる方法」と「直観」に蛍光ペンで下線の引かれたものや、「言葉ともの」と題された植松の制作やコンセプトに関係する単語が羅列されているものがある。「言葉ともの」にはいくつかのバージョンがあり、単語だけでなく「見えない〜」と「〜に触れる」に、様々な単語をつないでいくものが面白い。
例えば、2016年にデュッセルドルフから成田への飛行機の中で書かれた「見えない〜」に単語をつないでいく「言葉ともの」は、「見えない力」から始まって、「〜宇宙」「〜心」「〜間隔」など、いくつもの単語が「見えない」という形容詞とつながれていく。ここから植松の言葉に対する感度の高さ、言い換えれば注意深さがあらわれているように感じる。
私たちが普段見えないものについて認知し思考するとき、それは言葉として表出していく。つまり言葉も見えないものを取り扱うツールのひとつではあるが、事象を言葉にするためには、必ず抽象化と簡略化を含む翻訳を必要とし、つねに細部の削ぎ落としと誤読の可能性を孕む。植松のメモからは、関係のありそうな様々な単語を書き出し、つなぎ、羅列していくことで、自らが「直観」している「みえないもの」に近似するものを探して、言葉を少しずつチューニングしていく過程が見て取れる。翻って言えば、植松がタイトルに採用した「直観」が示す精神の指向性こそが、その翻訳を飛び越え、見えないものに直に触れる方法であり、その結果としてかたちづくられ、観客の直観を起動させるメディアとなるのがそれぞれの作品であることがわかる。
植松は個々の作品の構造とそれら全体の配置を、建物全体を使って巧みにディレクションしている。
エントランスホールは、みえないものの作用で成り立つ宇宙のあり方の縮図であり、会場を進むにつれ、見えないものの普遍性やそれで成立する世界の構造、そのもとで発露する生命のエネルギーが展開されていき、観客の直観がチューニングされていく。
例えば、今回の展示のなかでもっとも大きなインスタレーション《見えない力−軸・緯度・経度》は、万力で互い違いにかしめられた角材が、ステンレスの水盤に貯められた水の重さによってワイヤーで吊り上げられ、角材の上には水の入ったコップがひとつ置かれている。細部を見ていけば作品が絶妙なバランスの上で成り立っており、それぞれの素材の重さ、強度、位置、その全てが等しく釣り合って、ひとつでも欠ければ瓦解してしまうだろう。しかし、全体からは危うさよりもむしろ数式の等号が成立しているような、各所の力が拮抗した安定感の印象を受ける。それはどこかの一部分に過大な力がかかっているのではなく、作品全体に等しく力がかかっているからであり、その力の源泉は地球の、そして宇宙の重力である。
植松がテーマとしている重力や引力は、目に見えるものではないが、決して儚いものでも脆いものでもない。この宇宙を支える絶対的なルールであり、意識せずとも私たちの普段生活はそのルールのもとにある。その絶対性と強固さ、そしてそれらが拮抗して存在する美しさが植松の作品を通して軽やかに表現されている。観客は展覧会で植松の作品を見るうち、少しずつ「みえないもの」の手触りを感じ、自らの「直観」が起動し始める。展覧会を見終わって会場を後にしたとき、行きと同じ景色のなかに「みえないもの」とつながった自分の存在を感じることができるだろう。
本展は4月24日を最後に、新型コロナウイルスの感染拡大による3回目の緊急事態宣言の発出によって、会期を残して突然の終了を余儀なくされた。展覧会で示された「みえないものに、触れる方法」が、この状況下において私たちが生きていく手段のひとつになったであろうことを思うと、残念でならない。