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「作家」と「学生」のはざまで、卒業制作展の可能性。長谷川新評「Sweep-Space-Surface」展

多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コースの卒業制作展として、BankART(横浜)にて「Sweep-Space-Surface」展が開催された。作品展示以外にも多くのプログラムが組まれた本展のあり方について、インディペンデントキュレーターの長谷川新がレビューする。

長谷川新=文

BankART Stationでの展示風景

春の裁断

 卒業制作展というのは不思議なものだなと思う。一度に数百人、場合によっては数千人もの鑑賞者に自分のつくったものが開かれている。これはちょっとした「社会」といって差し障りないだろう規模だ。自分はといえば、学部の卒論の発表会で、同期や先輩たち、教授陣といった十数人程度に聴講されたくらいだから(記憶の限りではそこに保護者はほとんどいなかった)、その後散発的に読んでくれた人たちを足し合わせても筆者の卒論の読者は30人もいない。そう考えるとやはり、卒業制作展というのは当人たちにとって大変な出来事だな、と思う。

 「Sweep - Space - Surface」展は、多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コースの2020年度卒業制作展である。本当は個々の作品について具体的に言及するのが良いのだろう(だってこれは展覧会なのだから)。だがここでは、本展がたんなる卒展という射程を超えていたという点を強調したい。社会に対してひるむことなく、堂々と不安がり、いくつもの希望を見出し、自身と社会の変化を丁寧に追っていこうとする姿勢が備わった展示であった(個別の作品の話はいつでもやるので、話したい!という人は気軽に連絡下さい)。

BankART KAIKOでの展示風景

 本展タイトルは、「Sweep(急速に広がる)さまざまな力の均衡のもと、無数の形へと拡散してゆくSpace(時空間)/ そしてSurface(境界面)のいまについて、共に思索する機会とな」(*1)ることを目指して名づけられている。急速、さまざま、無数、拡散──。さざめきだつ語彙が並ぶにもかかわらず、本展は展覧会として地に足がついている。とても良い意味で、ふつうの展覧会になっている。脈絡のない作品が雑多に並びがちな会場の配置も2会場ともうまく整理されており、カタログもあり、ウェブサイトもあり、イベントも、パーティーもある。むしろ充実している。

 筆者は(おそらく初めて)展覧会の複数あるトークイベントの全部を聴いた。ゲストの言葉もむろん興味深いのだが、作家たちが何を考え、言葉にするのかを知りたかったのだ。これらのイベントはいずれも慣習として開催される付随イベントという性質のものではなく、展覧会をできる限り使い切ろうという姿勢によるものだ。とくに、3月26日 に開催された「教授陣 × 学生対談 司会 - 小田原のどか メディア芸術 / 美術教育 / 大学制度 / ジェンダー」は、学生たちが教授陣に学内のジェンダーの不均衡や教育内容について積極的に問いかける意欲的なものであった。「学生にここまでさせてしまっていて我々はいったい何をしているんだろう」という気持ちになる。ブーメランのように自分に刺さる。と同時に、展覧会を遂行する主体がここで二重化していることに気づかされる。

オンライン配信された「教授陣 × 学生対談」の様子

 本展はほとんどの箇所で「作家」や「キュレーター」をはじめとする語彙が用いられているが、このトークイベントにおいては限定的に、作家たちは学生として出演している。半ば学生であり半ば作家であるような者として現れている。より突っ込んで書けば、もう学生とも言えず、とはいえはっきり作家であるとも言えない不安定な主体として現れている。そのように現れることでしか聞き届けられず、反応を得られない声がある。少なくともこれまではそうだった、という前提を忘れてこのトーク内の力学を問うのは片手落ちだろう。制作以前、展覧会以前の不均衡が「表層(Surface)」の深部で根を張っている。

 もう一点、言及したいことがある。展覧会はBankART StationとBankART KAIKOの2会場に分かれており、zone1・2がBankART KAIKOであるのに対して、zone3はBankART Stationで開催されている。空間以上に質的差異をなすのが作家紹介文である。zone1・2は一人称による作家紹介であるが、zone3は三人称視点での記述となっている。つまり、キュレーターが責任主体として一歩前に出ている。興味深いことに、本展にはキュレーターとは別に代表がいる。それ以外にも細かくそれぞれの立場がクレジットされている。ここには、あまりにも忙しいという実際的な理由によって協業していることと、展覧会を遂行する主体を細部まで明示したいという気持ちとが混ざり合っている。キュレーターは展覧会において、批判や議論のアクセス先として存在し、トレーサビリティとして機能しうるのだから、そこが明瞭でないことは、例えば不均衡を「あくまで偶然だ」という居直れる余地を許すことになる。だがこの指摘は、権力勾配を鑑みればアンフェアなものだろう。本展は「卒展」のポテンシャルをいかんなく発揮した展示であったし、不安定な立場の主体が集まってお互いとお互いの作品をリスペクトしながらつくっていったことがよく伝わる展示である(楽しそうだった!)。そもそも、「卒展」の責任主体には(どれだけ学生主導であったとしても)教員や大学も含まれる。先のトークイベントも、前提として学生と教員の信頼関係がなければ実現しえなかったにちがいない。

BankART Stationでの展示風景

 「自炊」が苦手である。紙からPDFへ、オフラインとオンラインが結びつく際に、むしろ「切断」という儀式が発生している。QRコードは、クイックレスポンスという名前のとおり、オフラインからオンラインへと即反応してくれる(本展のカタログにも、作家ページの一枚一枚にQRコードがつけられている)。その手軽さに対して、作品をつくることの、展覧会をやることの、この社会を変えていくことの、なんというまどろっこしさだろう。「パンデミック下では」と限定する必要もなく、ふつうに展覧会をやること自体が多くの判断の連続である。その判断の多くは、たんなる美的判断を逸脱するものばかりだっただろう。「Sweep - Space - Surface」展は、これから作家になる人にも、そうじゃない人にも、ときどき還ってこれる場所になっていたのではないかと思う。ご卒業おめでとうございます。展評だぞここは、という気持ちもありつつ、次の言葉を贈ります。

「誰にも自分を明け渡さないこと。選別されたり否定される感覚を抱かせる相手は、あなたにとっては対等じゃない。自分にとって本当に心地よいものだけを掴むこと」(*2)

*1──多摩美術大学美術学部情報デザイン学科メディア芸術コース2020年度卒業制作展「Sweep-Space-Surface」展「はじめに」 http://www.idd.tamabi.ac.jp/art/exhibit/gw20/#top(2021年4月30日最終閲覧)
*2──島本理生『夏の裁断』文春文庫、2018年、120頁。

編集部

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