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それはあなたが見た光。飯岡陸評 「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」

身体の表象を軸に、性や人種、人と植物や機械、有機物と無機物などの境界を問う作品を制作する、写真家・細倉真弓の企画による展覧会「ジギタリス あるいは1人称のカメラ」がTakuro Someya Contemporary Artにて開催された。石原海、遠藤麻衣子、長谷川億名、そして細倉自身が参加し、一人称的な視点とその境界を問いかける本展を、キュレーターの飯岡陸がレビューする。

文=飯岡陸

展示風景 Photo by Shu Nakagawa Courtesy of the artist and Takuro Someya Contemporary Art

独白としての星雲

その風の吹く空の、遠さ、はるけさ、せつなさ──また大島さんがよくかく、風にゆれる花、タンポポ、ミモザ、秋萩、等々の、かれんさ、情のふかさ、おもいの清らかさ、等々は...この人のかく面からまさに、満ちて満ちて満ちて満ちて、読後には素晴らしい放心状態が訪れる ──萩尾望都(*1)

 大島弓子が1986年に発表した『ジギタリス』は、高校のある学年に2人いる「小林北人」が同姓同名ゆえに巻き込まれるトラブルを描く短編漫画だ。そのなかで主人公の小林北人は、もうひとりの小林北人の家を訪れ、その兄から「眠れない時無理に目を閉じているとどこからともなくわいて出て消滅する不定形の発光体」「その1番でかい1番明るい星雲」に「ジギタリス」と名づけていることを聞かされる。

 展覧会「ジギタリス あるいは一人称のカメラ」のステイトメントにおいて企画者の細倉真弓は、これを「視覚の実体と現象のあわいにあるような超個人的な視覚の記述」と位置づけたうえで、カメラとはそうした「撮影者の視覚を共有することを可能」にする道具なのではないかと書きつけている。ここから一人称による主観ショット(POV)を扱うような展覧会を予想していたが、しかし安易な予想は展示室に並んだ作品に裏切られる。あるトーンを共有するそれぞれのアーティストは、異なるやり方で、細倉の呼びかけに応答していたからだ。

細倉真弓「digitalis」シリーズの展示風景
Photo by Shu Nakagawa Courtesy of the artist and Takuro Someya Contemporary Art

 来訪者を迎え入れるのは、写真制作を通して人間と植物や鉱物のあいだ、性の輪郭を揺らがせてきた細倉の新作「digitalis」シリーズである。これは男性ヌード、彫像写真、セルフィーなどのファウンドフォトと自作のイメージをデジタルコラージュすることで撮影者の欲望を溶けあわせ、脱個人化、脱欲望化したイメージをつくり出す近作「NEW SKIN」シリーズ(2019〜)を引き継ぐものだろう。垂直に立てられたモニターに映された映像は、細倉が撮影した複数の写真が混じり合う静止画のなかを横向きに、撫でるようにゆっくりと移動していく。身体、体毛、植物、フェンス、ゴミ袋に入った飲料容器、アスファルト、杭、水面、スライム...…。

 ここで、それぞれの写真が持つパースペクティブが溶け合うだけでなく、複数の光源もまた絡み合っていることに注目したい。逆光、順光、反射光、あるいはネガのイメージは透過処理によって融和し、奥行きが強調される。「NEW SKIN」では拡大された網点によって平面であることが意識されていたのに対して、本作では実験室のスライドガラスのように被写体の物質としての側面を強調し(*2)、複数の事物のあいだで溶け合う境界そのものを浮かびあがらせる。

細倉真弓「digitalis#1」(2021)より

 石原海《牡蠣のような猫が落ちてくる》は短いエピソードによる、映像と現実との間を横断したインスタレーションだ。友人の手品師によって、猫のぬいぐるみを生きた猫として認識するようになった「アタシ」は、酩酊のなか「生きた猫」を「牡蠣」に見間違える。最終的に病院へとたどり着く、数珠繋ぎのように展開する妄想の物語の一方、輪郭を切り抜いた素材による映像からは、記号的なモノへのフェティッシュな感覚を見ることができる。医療用のパーテーションにかけられた金色のホイルカーテンは、辛うじて隔てられた妄想=フィクションと現実との境界を示すように、絶えずそよいでいる。

石原海《牡蠣のような猫が落ちてくる》(2021)の展示風景
Photo by Shu Nakagawa Courtesy of the artist and Takuro Someya Contemporary Art

 映画監督として『KUICHISAN』(2011)や『TOKYO TELEPATH 2020』(2020)などを発表してきた遠藤麻衣子は、初となるインスタレーション《Electric Shop No.1》において、映像のオブジェクト的側面を提示する。家電量販店でテレビの性能を伝えるために流される映像を参照した本作では、会場に設置された家庭用テレビに、薔薇が燃えゆく様子や変色する煙のようなもの、蛍光の粒子が空気の流れにあわせて宙を漂う様子などを映し出す。なお来場者は自由にリモコンを操作することで、映像を「裏チャンネル」に変えることができる。ここでは画面の中央で回転するLEDが映像のフレームレートとの間でフリッカー効果を生み出しており、映像装置の前提条件に対する戯れるような目配せが見てとれる。ありふれた住宅の一角を思わせる展示は、どこか別の世界にいるような異化効果と、メディテーションのような没入感を生み出している。

遠藤麻衣子《Electric Shop No.1》(2021)の展示風景
Photo by Shu Nakagawa Courtesy of the artist and Takuro Someya Contemporary Art

 長谷川億名は、佐渡島に住むある家族との日々のドキュメンタリー《First Memory of the Ocean》と、映像内にも登場する神秘的な浮島「乙和池」を模した祭壇のようなインスタレーション《Altarcall》(山井隆介との共作)を発表した。一見、南北に分断された近未来の日本を舞台にしたSF3部作「日本零年」のアプローチとは対照的に感じられる。しかし、脱走兵として死んだ友人に会うために過去と未来にトリップできるドラッグに溺れる青年の物語『イリュミナシオン』(2014)も、亡くなった娘が情報生命として生きているかもしれないと南部へ渡る看護師の物語『デュアル・シティ』(2015)も「死を受け入れること」を描こうとするものであり、ある場と共同体、信仰と死生観といった通底する主題を見ることができる。

 《Altarcall》においては、女性の入水によってできたという伝説が残る浮島の中心の「池」部分がモニターになっており、ブロックノイズと色調が様相を絶えず変え、水面、微生物、映画の字幕、浴槽の赤い水面に身体をうずめる人影などを映し出す。そのタイトルが仄めかすとおり、祭壇の前に立つことと、映像を見つめることの役割は重なり合う。

長谷川億名《First Memory of the Ocean》(上、2021)と《Altarcall》(下、2021)の展示風景
Photo by Shu Nakagawa Courtesy of the artist and Takuro Someya Contemporary Art

 ところで逸脱者たちの物語、ジェンダーと家族の役割と入れ替わり、死と転生を描く大島弓子の作品は、植物に覆われている。少女漫画を心理描写に特化したジャンルとして位置づけることは多いが、大島の作品においてそれは顕著であり、ときとして登場人物の妄想が現実と境目ないものとして物語を進行させる。そのとき両者の境界を揺らがせるのが、紙面をたゆたう植物である。あらすじに関係なく挿入される瞼の裏の星雲「ジギタリス」──オオバコ科の花の名前でもある──はそのひとつのヴァリエーションなのかもしれない。

 瞳を閉じたその裏側に、宇宙の遥か向こうにある星雲を見出していることを聞き、主人公は心のなかでこう呟く。「あれに名前をつけた人がいたとはね」。細倉が召還するこのエピソードは、通奏低音として展覧会をつなぎあわせている。なぜならそれぞれの試みによる媒体混合的な場が来訪者に提示するのもまた、アーティストが視覚器官を通して見たものではなく、その向こうにある「ここではないどこか elsewhere」──境界が溶け合うヴィジョン、虚構の物語、異化と没入、そして彼岸──への眼差しだからだ。そのことに気づいてはじめて、あなたは「ジギタリス あるいは一人称のカメラ」と名指された展覧会の前に立つことができる。

*1──萩尾望都「ユミコ風」大島弓子『銀の実をたべた?』小学館、1977年、230頁
*2──こうした操作はダナ・ハラウェイ「状況に置かれた知」(『猿と女とサイボーグ―自然の再発明』収録)についての細倉の以下発言と響きあう。「白人男性の特権的な場から全体を見下ろすのではなく、自らが置かれた場における局所的なヴィジョンを連結させて新たな位相を構築する。それがもっともラディカルなのではないか、という提案に共感します」藤原えみりによるインタビュー『美術手帖』2020年2月号、145頁

編集部

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