記録と記憶:公的な記憶は誰によってつくられ、維持されるのか
藤井光が、6月13日まで原爆の図丸木美術館(以下、丸木美術館)の小さな部屋で「爆撃の記録」という展示を行っている。こう書くと、藤井の活動をよく知っている人にはすぐにピンとくるはずだ。そう、この展示は、2016年、リニューアル直前に東京都現代美術館で開催された「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」展に出品された同タイトルの作品《爆撃の記録》(2016)の別バージョンである。したがって、今回の展示を語る前にその前提として「キセイノセイキ」展における展示について簡単に確認しておく必要があるだろう。
「何も展示しない」という展示:「キセイノセイキ」展における《爆撃の記録》
「キセイノセイキ」展は、そのタイトルの通り現代美術における規制や検閲の問題──ここには日本固有の問題である「自主規制」も含まれる──を扱ったアーティストやキュレーター、批評家による企画展だった。なかでもいまなお解決されていない現在進行形の「規制」を扱った藤井の展示《爆撃の記録》は、その「空虚さ」によって圧倒的な存在感を示していた。
「空虚さ」というのは皮肉ではない。実際に藤井に与えられた空間は、眩しいくらいに真っ白く塗られた壁にフレームが飾られ、ガラスの展示ケースや台座、そしてキャプションが付けられたものの、この展示のヒントを示す映像作品以外、何も展示されていなかったのである。それは「何も展示しない」という展示、空っぽのインスタレーションだったのだ。
凍結した東京大空襲資料館:東京都平和祈念館(仮称)構想
なぜ、藤井はこのような奇妙な展示を選択したのだろうか。それは、これが「東京都平和祈念館」構想に関わる展示だったからである。「東京都平和祈念館」とは何か。話は、30年前にまで遡る。
東京都は鈴木俊一知事の時代1990年に、東京大空襲のあった3月10日を「東京都平和の日」とするという条例を制定し、その後92年に「東京都平和記念館基本構想懇談会」を発足、94 年には「東京都平和祈念館(仮称、以下、平和祈念館)基本計画」を発表した。
その計画にしたがって、東京都は広く一般都民に、遺品や文書資料の提供を呼びかける。収集品の数は5000点にも上った。またあわせて空襲体験者330人にインタビューし、それを撮影、映像資料を作成した。こうした作業を通じて、東京都民にとって未曾有の経験である東京大空襲を風化させずに記録と記憶にとどめようとしたのである(*1)。
けれども、1990年代初頭にバブル経済が崩壊し、さらには東京大空襲に至る歴史的な経緯やアジア侵略に関する展示部分が都議会で右派系の議員によって問題にされ、石原慎太郎都知事のもと、1999年に予算の執行が凍結された。そして、それ以後計画再開の目処は立っていない。
この計画を知った藤井は、「キセイノセイキ」展の参加に際して東京都現代美術館を通じて資料の貸し出しを要請する。けれども、「個人の要請では貸せない」という理由で断られる──実際にこれまでにも区市町村に対する貸し出し実績が存在するにもかかわらず。展示内容が歴史認識をめぐるもので、現状を批判するものとして警戒されたのかもしれない。
いずれにしても、「キセイノセイキ」展で藤井が示した空っぽの空間は、この貸し出し交渉のいわば「失敗」の産物だったとも言える。もう20年近く凍結された平和祈念館構想はこのまま頓挫してしまう可能性が高い。唯一「作品」として藤井が制作した映像は、この展示のための作業を手伝いながら、空襲体験者がその経験について語る様子を新たに撮影したものだが、時間が経過すればするほどこうした経験の語り部の数も減りつつある。聞き取り調査に応じた証言者のなかには、すでに他界した人も少なくないだろう。「キセイノセイキ」展の《爆撃の記録》の映像作品は、結果的に会場における展示物の不在を逆に浮かび上がらせるものだった。
藤井光、二つのレイヤー:美学と政治
藤井の「キセイノセイキ」の展示《爆撃の記録》は二つのレイヤーを持っていた。ひとつは、これ自体、何よりも戦争の記憶と記録をめぐる現在進行形のポリティクスを描いたインスタレーション作品である。2000年代になってよりはっきりとかたちをとって現れてきた復古主義的で排他主義的なナショナリズムは、アジアに対する侵略、植民地主義という加害者としての記憶を否定するだけでは飽き足らず、あたかも戦争という野蛮な行為全部を肯定するために(そして、おそらくは次の戦争を準備するために)、東京大空襲や広島、長崎など戦争の記憶そのものすべてを抹消しようとしているように見える。国や東京都といった公的な機関は率先してその片棒を担いでいるようだ。眩いばかりの真っ白な空間は、そうした政治的な状況を「現代美術」のインスタレーションとして批判的に描いたものである。その「空虚さ」は、いまなお続く強権的な力の行使を象徴的に示していた。
けれども、この作品が目指したのはそれだけではなかった。「空虚さ」の美学は、その展示空間に埋められるべき遺品や資料、そして体験者の証言映像をそれでもやはり待っていたのである。戦争の経験を扱った作品を語るクリシェに「戦争の犠牲者という当事者にしか語りえぬものを語る(あるいはそのことの不可能性)」というものがあるが、藤井の空っぽのインスタレーションがいかに眩く崇高で美的に見えたとしても、そうした徹底的な表象不可能性への美学的な接近を目指したものではない。繰り返しになるが、すでに展示すべき資料と映像が倉庫の中に存在しており、それは決して展示不可能なものではないのだ。空っぽな空間に展示すべきモノたちを召喚することによってこの作品は完成するはずだった。藤井のプロジェクトはきわめて実践的な「政治」への関与、資料の開示請求でもあったのである。
東京都平和祈念館を丸木美術館で想像的に再現する
さて、丸木美術館の展示に戻ろう。東京都から遺品や資料、映像を借りることができないなかでどのような展示ができるのか。今回の展示もこの基本的な前提は共有されている。やはり展示会場は白を基調した空間であり、リサーチベースド・アートのインスタレーションとして見ることもできる。
けれども、今回は前回のように「空虚さ」を見せるというのではない。むしろ今回の展示は、そもそも平和祈念館がどのような構想だったのかを示す一種の資料展として見ることができる。会場に並べられた台座には、平和祈念館の構想、建築図面、展示企画書の複製が展示されている。空襲体験者の証言の抜粋は映像ではないけれども、文書による抜粋というかたちで読むことができる。さらに、映像がどのように撮影されたのか、その指示書も展示されている。
それは、あるべきはずの平和祈念館と、そこにおける鑑賞体験を想像できるような展示なのだ。それを見ると、平和祈念館が東京大空襲だけを特権的に取り上げ、戦争犠牲者としてのみ日本人を描くのではなく、そこに至る歴史的過程や東京という帝国主義的軍都の問題、そして、未来への平和の取り組みなどを丁寧に展示しようとした立体的な計画だったことがわかる。静かな展示である。だが、そこで計画された構想の射程の広さは明快に伝えられている。
記録と記憶:展示のサイト・スペシフィシティ
今回の藤井の「爆撃の記録」は、丸木美術館という場所を多分に意識したサイトスペシフィックな展示としてとらえるべきだろう。同館には、丸木位里、丸木俊夫妻の「原爆の図」の連作が常設展示されている。縦1.8m、横7.2mの巨大な屏風の連作は圧倒的だ。豊かな自然に囲まれた美術館の静謐な空間には巨大な作品が掲げられ、原爆投下直後のむせ返るような匂いや熱、うめき声や混乱が充満しているようにも感じられるのだが、同時に本当の被爆地は決して表現することができないほど酷いものだったにちがいない、ということもあらためて考えさせられる。絵画の残酷な風景が、現実の表象不可能性を不可避に浮かび上がらせるのだ。
「爆撃の記録」は、この丸木夫妻の作品とともに体験することが前提とされている。それは、いまだ実現していない平和祈念館と圧倒的な存在感をもって迫ってくる丸木美術館の展示を重ね合わせることである。また、それは、平和祈念館計画の一部として丸木美術館をとらえること、逆に丸木美術館の一部に平和祈念館を位置付けることを想像することかもしれない。いずれにしても、観賞の経験は、記憶と記録の重なり合いを確認しつつ、そのズレを精査する経験として提示されている。
ここで丸木美術館が、実際には「原爆の図」以外の作品も展示していることを強調しておくべきだろう。丸木美術館には、広島と長崎の原爆を描いた15部の連作のうち14部(1部は長崎原爆資料館が所蔵)の「原爆の図」以外にも、南京大虐殺や水俣、アウシュビッツを描いた作品が展示されている。また「原爆の図」の連作においても、原爆で死んでしまった在日朝鮮人や広島で捕虜となり日本人に殺された米兵も描かれている。このことによって、原爆をたんに広島や長崎、あるいは日本人の戦争経験ではなく、広く人類全体の経験として位置付けようとしているのだ。そのためには、戦争における日本の加害者としての立場も引き受けなければならない。
このことは先に述べたように平和祈念館の構想のなかで強く意識されていたことだった。丸木美術館の圧倒的な熱量の常設作品と未来の展示物を待っている静謐な展示室。何が共有され、何が分有され、何が共有されないのか。藤井の試みは、「爆撃の記録」を設置することで、丸木美術館全体の展示と現在の私たちの危機との関係を再考することだったのである。
公的な記憶は誰のものなのか、誰が維持するのか?
記憶とは誰のものなのか。公的な記憶はどのようにつくられ、どのようなインスティチューションによって維持されるべきなのか。丸木美術館がインデペンデントな民間財団であるいっぽうで、凍結している平和祈念館が東京都の構想であるという事実は、端的に本来的な意味でパブリックな記憶が、もはや国や自治体によって維持されることが困難になっていることを意味しているのだろうか。
しかし、平和祈念館に収蔵された遺品や資料、インタビュー映像は、もともと市民のものである。提供した人は、自分たちの経験が広く時代や空間を越えて共有されることを願っていたのではないだろうか。人々のそうした気持ちが、一時的な行政の「気まぐれ」で永久に反故にされていいのだろうか。いまでは東京という都市は、たんなる日本の首都であることを超え、すでに多くの在日外国人、学生や研修生など短期滞在者、旅行者、企業や組織を抱え、世界中に張りめぐらされたネットワークの結節点である。政治的・経済的・文化的にもこうしたグローバルな関係性に支えられている東京のトランスナショナルな公共性をいまこそ考えるときではないか。
藤井光の《爆撃の記録》の展示はこうした問いを私たちに突きつける。この問いを浮かび上がらせる空間は、コロナ禍のため運営の危機に瀕しているにもかかわらず、多くの支援に支えられてなんとか継続している丸木美術館でなければならなかった。小さな展示である。しかし、大きな問いを提起している。この問いを考えるために半日を使って都心から離れ、丸木位里の故郷、広島の太田川に風景が似ているという丸木美術館を訪れるのは決して無駄ではないだろう。
*1──本稿の基本的データは、岡村幸宣「原爆の図丸木美術館における『爆撃の記録』」(展覧会配布資料、2021)に依拠している。