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現代のポップ・アートに見る二重性とユーモア。清水穣評 カスパー・ミュラー「In and Out」展、臧坤坤「Double Screens」展

オブジェや平面、既製品を組み合わせ、ユーモアや皮肉を込めたインスタレーションを手がけるカスパー・ミュラーと、絵画、オブジェクト、そして画中にあるものに等価な関係を構築しようとする臧坤坤(ツァン・クンクン)。現代のポップ・アートをめぐる二元論と、同時期にチューリヒで開催された両者の個展に見られる二重性について、清水穣が論じる。

文=清水穣

カスパー・ミュラー「In and Out」展の展示風景。中央が《シャンデリア》(1915/2020) Photo by Annik Wetter

POP 2020:ユーモアとアート

二元論とポップ・アート

 チューリヒを代表する2つのギャラリーで別々に開かれた作家──カスパー・ミュラー(1983〜)と臧坤坤(ツァン・クンクン、1986〜)──による個展には、それぞれの仕方で「ユーモア」というものをいま現在の芸術表現へ昇華させる志向が見られた。それは、レディメイドと複製を主題にし(ミュラー)、抽象表現主義を標的にする(臧)点で、いまさらながらポップ・アートに通じている。国も文化的背景も異なる2人の作家の、少なくとも作品自体のあいだでは同世代性/同時代性が成立しているのであった。 

 情報メディア社会の特徴は、グローバルなネットワークが生活の隅々に浸透することで、情報やイメージが世界を形成することである、と。「もの」の1回かぎりの実在感は希薄となり、「私」や「いまここの現実」というかけがえのない実在もまた、デジタルネットワーク・システムのなかで交換可能な位置にすぎないのではないかという不安が生じ、その結果、「いくらでも複製できるもの」対「1回かぎりでリアルなもの」、より一般的には「イメージや情報に還元しつくされるもの」対「イメージや情報に還元されないリアルなもの」という二元論が現れ、その「リアル」もまた「イメージや情報」のうちに取り込まれてしまった社会において、前者と後者の関係をどのように考えるのかという問いが現れる、と。

 ポップ・アート、とりわけウォーホルの芸術はこの問いに対する最初の応答であったと言えよう。1960年代後半、情報メディア社会の出現とともに、「リアルなもの」を「代表・代理」するとされてきた「表象」が失墜し、戦後社会は「シミュラークル」の時代に入っていく。それと並行して、代表・代理関係以外のルートで実在と結びつこうという欲望が活性化した。加速度的にメディア化する社会においては、事物とじかに、つまり媒介(=メディア)なしに対応する物理的痕跡、すなわち「インデクス」が、「実在」との確かな絆を保証するはずだ、と。写真は、ある瞬間に光が感光物質に刻み込んだ1回かぎりの痕跡として、インデクス記号のひとつである。が、複製技術としての写真は、その痕跡を「型」(ネガ)として「1回」を何回でも反復する。実在との絆であるインデクス=写真は、そこから単一性を剥奪することで実在を裏切りもする。ウォーホルの写真製版による作品、とりわけ電気椅子や自動車事故のシリーズは、写真のこの両義性の表現でもあった。たったひとつの死ですら複製し消費する社会の残酷な軽さは、単独でかけがえのないものを、複製可能なスペクタクルにしてしまう、と。

 ウォーホルのサルカスムを尻目に、デュシャンは「そして死ぬのはいつも他人」と言い放つ。スペクタクルであろうがなかろうが、事実として「死」は絶対的に私ひとりのものであるほかはない。誰かの死を死んであげることも、誰かがかわりに死んでくれることもない。自明の理である。しかし、死という終点でなければリアルな単独性はありえないのだろうか。もっと日常的なそれはないか。
 それが、笑いでありユーモアであるとフロイトは言う。『夢判断』(1900)から「ユーモア」(1927)に至るまで「笑い」はフロイトの著作の重要な主題のひとつである。笑いとは死の肯定であり、無意識と本質的な関係にある。笑うとは、意識する以前に笑わされてしまうことであり、その瞬間に人は必ずひとりである。ここで「死」とは、自我の同一性(前掲二元論の前者)が消えることであり、生死を意味づけるシステムから外れることである。意味のシステムから逸脱し同一性を見失う、この恐るべき経験を瞬間的に通過したとき、恐怖と安堵、緊張と弛緩の混じり合った神経の痙攣から、我々は笑ってしまう。「笑う」とは、私を支えていたシステムから滑落して、私がたんなる一物体になることである。

 あるいはまた、日常的な死として、笑いとユーモアとして、アートもそこに数え入れられる。先の二元論をアートで翻訳すれば、前者は機械的に大量生産される既製品で後者は手仕事によるオリジナルの芸術作品、前者は大衆マンガや商業デザインで後者は崇高にして超越的な芸術ということになろう。ポップ・アートの基本的な志向は、この二元論を崩すことである。その戦略は、両極を入り交じらせ(前者のうちに後者、後者のうちに前者を見出す)、あるいは通底させる(両極をさらに極端に進めると、互いの対極に通じる)ことにあった。これら2つの極をふまえて、2つの個展はそれぞれ「内と外」「二重のスクリーン」と題されているわけである。

二重性を孕む2つの個展

カスパー・ミュラー「In and Out」展の展示風景
カスパー・ミュラー「In and Out」展より、《無題》(2020)

 カスパー・ミュラーの本展の大部分を占める作品は、手描きのデッサンや水彩、写真に上描きしたり写真を描き起こしたりしたドローイング、あるいはペイントしたオブジェや風景の写真……に見間違えそうなほど、非常によくできたインクジェットプリントである。A2サイズで統一された作品はすべて「無題」で、満遍なく脈絡のないイメージの選択や、ゲルハルト・リヒターからの引用(イメージとして《48の肖像画》[1971/72]、オブジェとして《フランドルの王冠(シャンデリア)》[1965])が登場するので、見間違えることはないが、ここでは作品の単一性を保証するはずの手仕事が、ソフトウェア上の凝った手仕事に翻訳され、複数性を保証するはずのデジタルプリントが、エディション1という単一性につなげられている。先の両極のどちらが「内」であれ「外」であれ、内外はクラインの壺のように接合されて、一種の自閉系をつくり出す。それを作者は肛門期のエロスと見なしているようだ。会場入口には巨大なアナルビーズと、花柄のトイレットペーパー(コロナ禍の年、2020年の徴!)の1枚をキャンバス上に大きく描いた(印刷した上からオイルパステル)作品が並ぶ。「トイレットペーパー」になすりつけられて、作品を単一の絵画と成しているオイルパステルは、カラフルな糞という扱いだろう。この一種の攻撃性、破壊衝動は、3Dプリンターによるオブジェ、《投瓶機》(2020)にも窺える。壺ならぬ瓶を放り投げて壊すのだ。

臧坤坤 Mark Rothko in Socialism(II) 2020
キャンバスにアクリル絵具、アクリル樹脂 120×92×6cm
Courtesy of the artist and Mai 36 Galerie Zurich

 臧の個展は「東洋と西洋」という手垢のついた言説のフレームを手放してはいないが、彼の世代にとって、両者は対立するのではなく重なり合っている。現代の豊かな中国では、旧市街や郊外の再開発が進んで、どこの大都市も画一的なグローバル・デザインに染まっているが、「二重のスクリーン」のコンセプトは、そこに設置されたいかにも予算をかけたモダンな(バウハウスをルーツとする)デザイン什器──ポスタースタンドやリサイクル用分別ゴミ箱──に、芸術の崇高性の成れの果てを見ることである。崇高の美術史への参照は、バーネット・ニューマン、マーク・ロスコに始まり、聖顔布、屠殺場で吊り下げられた牛(西洋美術の定番モチーフ)、ロバート・モリスにまで及び、絵画、オブジェ、額装(額の素材、質感、色)をも含むインスタレーションの全体が、それらの参照点に細かく対応して、じつに周到に組み立てられている。作品自体のモノとしての存在感が強いので、崇高な芸術の世俗化(中国のゴミ箱やポスタースタンドに転生した抽象表現主義)というある意味で単純なメッセージが前面に出ず、観客は、臧の絵画やオブジェに仕込まれた様々な二重性を自ら発見する楽しみを奪われない。

臧坤坤「Double Screens」展の展示風景 Courtesy of Mai 36 Galerie Zurich
「Double Screens」展より、左から《Barnett Newman in Socialism - Red on Red (II)》《Red on Red * Soar * China 8》(ともに2020)
Courtesy of Mai 36 Galerie Zurich

『美術手帖』2021年4月号「REVIEWS」より)

編集部

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