O滞としての「地Q体」
コロナ禍で、平成期にあれほど活況を呈した大規模国際「芸術祭」が次々に延期・中止となり、実施されても規模が大幅に縮小されるなど、苦境が続いている。
そんななか、この先の芸術祭のあり方について大きな方向性を提示したのが、大分県の別府市で1年に1度開かれている「in BEPPU」だ。今年で5回目を迎えるこの国際芸術祭がほかの芸術祭と異なる最大の特徴は、1回の開催で1人(1組)のアーティストを招聘し、市内の各所で展示を行うという拡大された個展形式の芸術祭であることだろう。さかのぼれば、2009年から同地で始まった国際芸術祭「混浴温泉世界」を原型とするが、これに続く12年、15年の3回の実施の後、16年からこの形式を採用するようになった。
そこには「乱立」と揶揄もされた国際芸術祭に対する、総合プロデューサーを務める山出淳也氏なりのアンサーかつカウンターがあったに違いない。だが、芸術といっても公共事業ゆえ、国内外から参加する作家の数や来場者の動員といった「数」をどうしても競いがちだ。来場者1人ひとりの経験の広がりや、作品の実質を街とより有機的に結合するため、あえて「個展」形式を取ることには、大きな冒険(挑戦)があったに違いない。
幸いなことに私は、このまったく(と言ってよいだろう)新しい形式の国際芸術祭を、その初回からほとんどすべて見る機会に恵まれている。そのそれぞれが、どれもよく似た形式を取る国際芸術祭とは一線を画する経験の機会となっていることを、身をもって確かめてきた。だが、これは偶然とばかりは言えないのかもしれないが、この拡大された個展としての国際芸術祭が、結果的に現況のコロナ禍に柔軟な対応ができる形式であったことを今回、改めて知ったのである。
その理由の最たるものが、「in BEPPU」が個展形式であるということにほかならない。国内外から相当数のアーティストを招き入れる通常の国際芸術祭は、仮にリモート技術を駆使して作家の来日や滞在を回避し、なんとか設置にまで至ることができたとしても、個別の対応にかかる膨大な作業量や技術の試行錯誤には想像を超えるものがある。ところが作家が1人(1組)であれば、この困難は比べ物にならないくらいに削減される。しかも、それでいて(美術館での個展の規模ではなく)街の全域を活用した芸術祭なのだ。
これはコロナ禍で国際芸術祭を実施するうえで、大きな利点となる。だが、それも先に「偶然とばかりは言えない」と書いた通り、本芸術祭がその成否を参加作家や来場者の「数」で測ろうとする評価モデルへの対案として構想されていることに端を発していた。言い換えれば「in BEPPU」は、これまで圧倒的に「動員」を基準に評価されてきた旧来の芸術祭が、コロナ禍でその評価モデルそのものを根底から覆されつつあるいま、それ以前から「動員」とは異なる道筋で「個展」や「体験」の質を高めようと変革してきた、その成果がいままさに得られているとも言えるかもしれない。
いささか前置きが長くなったが、今回の「梅田哲也イン別府『O滞』」では、その強みが具体的なコロナ禍への対応を経てさらに練り上げられ、おそらくは世界でも例を見ない芸術祭として、ウィズ・コロナ/ポスト・コロナも射程に、大幅に次元が桁上げされている。というのも、会場はこれまでにも増して、別府の市街から由布院との境にある山に至るまで広域に分散しているのだが、それだけではない。じつは会場の一部はアルゼンチンのブエノスアイレス沖にまで広がっているのだ。
なぜそのようなことが可能なのか。今回の梅田展で最大の特徴と言えるのは、簡易なマップを手に会場にあたる場所を訪ねても、あらかじめ予約のうえ借り受けた携帯型の受信装置がなければ、作品にあたるものがほとんどまったく存在しないことにある。GPSを利用して受信されたナレーションや口上、収録された音場などと、該当する会場が持つそれぞれの景観、そこに潜む由来、雰囲気などが相乗して場が大幅に異化され、初めて鑑賞体験となるのだ(言い換えれば、作品設置のためのボランティアなどの「動員」がほとんど必要ない)。
しかも、GPSによるサテライト受信であって単純な再生ではないので、鑑賞者が音声などを耳にする場所やタイミングなどは、それぞれ微妙に異なっている。時にはすべてを受信できずに移動してしまうこともおおいにありうる。それは、あたかも外歩きをしながら、誰かしらと場をともにしつつも、にもかかわらず同時に見えない距離を置いて、それぞれが「ステイホーム」をしているかのようでもある。そしてそれが、芸術祭につきものの集団的な鑑賞性とはまったく異なる風景と個別性を、結果として生み出している。
街の随所に開けられたこの公的であると同時に個的でもある(あえて言えば)「ステイホール」が、おそらくは梅田の言う──場に開けられた穴としての──「O(ゼロ)滞」なのではないか。そしてこの「O滞」という穴は最終的に劇場で公開される映画という闇(やみ)芝居の「穴」へと結集されるのだが、その内容について、ここでいちいち記するのは野暮というものだろう。
大事なのは、この「O滞」という穴が、GPSを利用するがゆえに、地球という私たち人類の棲家としての球体=「O滞」へとつながり、地球のそこここに──グローバルとは異なる意味で──「ステイホール」を開けていくことが可能だということなのだ。それはグローバルというよりプラネタリー(遊星的)な体験であり、かつての芸術祭が依存していたグローバル経済の世界性とは明らかに異なる。しかしそれでいて別府から発しつつ、これまでの国際芸術祭とはまったく異なる回路(それこそが「O滞」という多孔世界かもしれない)を通じて、確実にここではないよそへと接続されているのである。と同時に、至極具体的に、それが別府のほうぼうから湯気を吹き出す地熱と温泉の「O滞」(源泉の穴)でもあるのは言うまでもない。
さて、残された紙幅で記すにはあまりにも意義深い企画「虹 夏草 泥亀 佐藤俊造展」が、やはり大分の全域で「in BEPPU」と相前後して開かれた。
私はこの大分県日出町出身で、農作業の手伝いなどをしながら生計を立て、自らの手でアトリエをつくり、2010年に病で没するまで絵を描き続けた画家について今回初めて知った。だがそれは大分県下でも同様であったようで、没後10年を機に有志の手で(二宮圭一、木村秀和両氏)、まず佐藤の絵を学校や図書館、喫茶店、旅館など大分の100を超える場所(一部は福岡、熊本に及ぶ)に1点ずつ「拡散」する「一点美術展」を開き、その後、絵は大分市アートプラザ(磯崎新の設計で、ネオ・ダダの展示が併設されている。佐藤はその一員の田中信太郎に教えを乞い、風倉匠とも交流があった)に「凝集」されて「全貌展」となった。絵のほうから出向いて地域の厚意を得て広がるとは、言うのはたやすいが、実現は至難の技だ。が、佐藤の絵には、遺された者にそれを手に出向く側も受け入れる側にも、惜しみなく力を寄せることを厭わない未知の伸びやかさと思索の導線が、地中に張る根のように伸びていたのだろう。芸術祭ではないが、見る者に能動を喚起する佐藤の絵は、やはりこれからの芸術が人々を集わせることの意味について再考を迫る力を持つ。梅田の「O滞」ではないが、これも大分の方々から世界に向けて開けられた一種の多孔世界と言えるかもしれない。
(『美術手帖』2021年6月号「REVIEWS」より)