アスリートの身体、そのA面とB面
とあるスポーツ中継の一場面。試合を終えて興奮醒めやらぬ選手にスポーツキャスターがマイクを向ける。「今日の試合を振り返っていかがでしたか?」このお決まりの問いに、国民的人気を誇るその選手はあらかじめ準備された台詞か何かのようなポジティブなメッセージで応える。チームメイトやファンへの感謝、ライバル選手への敬意もそつなく織り混ぜ、次戦に向けてさらなる飛躍を誓う。コンディションが絶望的に最悪だったとしても不平不満は言わない。試合中のパフォーマンスから競技外の振る舞いまで、自分の一挙一動がメディアの向こうの視聴者にジャッジされていることを重々承知しているからだ。
「なんも言えねえ」「めっちゃ悔しい」「自分で自分をほめたい」「いままで生きてきたなかでいちばん幸せ」「すごく楽しい42キロでした」「私は伝説になった」。アスリートの「名言」はスポーツの勝敗のドラマと結びつき、ときにナショナリズムの高揚と相俟って歴史に登録されてきた(*)。しかし、いったい誰(何)がこのような言葉をアスリートに吐かせてきたのだろう? 心身の極限状態を経て表出されたアスリートの言葉を上っ面と決めつけるつもりはないが、その言動やふるまいには、メディアやスポーツファンのなかば無意識的な期待が少なからず投影されているはずだ。アスリートとは大衆が望む感動の「物語」を背負わされた存在である。彼・彼女らには、競技の記録更新だけでなく、世間の空気を読んだ最適解のふるまい、時代に合わせた価値観のアップデートが、あたかも芸能人のごとく求められているのだ。
大衆の期待、時代の要望、さらには国家や政治の思惑にまで巻き込まれてしまうアスリートの身体から、いったい何が読み取れるのか。佐倉の国立歴史民俗博物館で開催された「東アジアを駆け抜けた身体―スポーツの近代―」展を見て、時代のアイコンとしてのアスリートという存在をあらためて考えたくなった。国立台湾歴史博物館、国立成功大学との共同研究として実施された本展は、「スポーツ」の概念が西洋から導入された明治期以降のスポーツ史を写真・文献などの資料で展観するものだ。
展示は4部構成。1、2章では日本の近代化の過程におけるスポーツ受容を様々な事例でたどる。明治期、西洋由来のスポーツは国民皆兵制度の導入を背景に普及し、とりわけ学校における「体操」の科目を通じて新たな身体観の形成に寄与した。それは同時に、国家による国民の身体の管理・統制を意味する。よく知られているように、1920年代にはじまったラジオ体操は労働者の規律訓練の一環であるし、近代日本の学校体育は軍事訓練の目的も兼ねていた。
本展はこうした近代スポーツ史の定説を要所要所で踏まえつつ、草創期の学校運動会の写真・映像資料、中等学校ではじまった野球ブームとその批判的言説(「野球は害毒」!)など、ユニークな文脈も紹介する。近代日本スポーツ史に名を残す陸上選手・人見絹枝の活躍にスポットを当てたセクション、1925年の『主婦の友』の付録としてついてきた「女子スポーツ双六」(上がりの手前のコマがなんと「結婚」になっている)の紹介など、長らく周縁化されてきた女性とスポーツの関係を再考させる資料展示も興味深い。学校制度と結びついた種々の競技の進展、帝国日本のスポーツを通じた統治戦略、スポーツにおけるジェンダー問題。小規模ながらに多様な論点を埋め込んだところが本展の評価すべき点だろう。
展示のハイライトは「日本代表」「満洲代表」として活躍した台湾人アスリート、張星賢(1910〜89)の歩みに焦点を当てた第3章だ。張の存在を知る者は日本ではほとんどいないだろうが、1930年代にはオリンピックに二度の出場を果たした国際的な陸上選手である。台中商業学校在学中に陸上競技の資質を開花させた張は、早稲田大学専門部に進学して競走部に所属し、卒業後に南満洲鉄道に就職してからは、いまで言うところの企業アスリートとして世界各地の大会に出場した。植民地台湾、日本本国、満洲をまたがって活躍した張はまさに「東アジアを駆け抜けた身体」を体現する存在だったわけだ。
しかし、トラックを走る競技中の張の姿をとらえた写真資料──いわば、いかにもアスリートらしくアクティブに躍動する身体の表象──は、本展にはあまり展示されていない。主に展示されているのは、大学競走部の仲間たちや日本人選手団のメンバーと一緒に写った集合写真、海外遠征に向かう船上での記念写真、ロサンゼルスオリンピック参加時の日記、お世話になった台中出身の支援家に送った書簡、日々の出費をまめに記した小遣帳といった、競技生活のバックグラウンドを示す資料類だ。躍動する競技中の張の姿をA面とするならば、ここに集められた資料は、張のB面の姿を証言するものと言えるだろう。
ただし、B面とは言っても、それがいちアスリートのオフの姿を素朴に伝えるものではないことに留意しておきたい。植民地下の台湾出身である張はその出自を理由に八幡製鉄への就職を断られているし、遠征先のアメリカでは「朝鮮人選手」と紹介される誤解に逐一対応しなければならなかった。1932年、ロサンゼルスオリンピックの代表に内定した際には、自伝に「台湾にゐる差別的な日本人を見返したんだ」とも書き記している。海外大会時には「アジア人」というレッテルから差別を受ける場面もおそらくあっただろう。B面の姿を証言する資料の数々は、「日本(満洲)代表の看板を背負った台湾人アスリート」という複雑なアイデンティティをもつ張の暗闘の軌跡を示すものでもある。むしろB面での活動のほうが、ルール不在の盤外の戦いゆえの難局を強いられた場面もあったのではないか。また、集合写真、オリンピック出場選手の自筆サイン帳といった資料類は、張が組織や集団のなかの一員であった事実を見る者に思い起こさせる。競技場では突出した「個」の卓越性を見せつけるアスリートも、規律のなかで生きる社会的存在であることに変わりはないのだ。
出自的に苦労したせいもあってか、張の関心は自分と同様のマイノリティに向かったようだ。あるときは台湾出身の女性アスリート・林月雲の不遇を案じる手紙を書き送り、ナチス政権下のベルリン・オリンピックでは小国フィンランドの選手にシンパシーを寄せた。マイノリティを思いやる心優しいアスリート──そんな張の「素顔」を垣間見る思いがするが、しかしそのような人物像を勝手に思い描くこともまた、ひとりのアスリートの生を都合よく成型された「物語」へと収奪してしまうことにつながるのかもしれない。A面であれB面であれ、国際的に活躍したアスリートの競技生活が世界情勢や政治の影響から無縁というのはありえないのだから、私たちに出来るのはせいぜいのところ、「素」に見える言動やふるまいが別の政治的思惑に動員される可能性を低く見積もらないことだ。アスリートというアイコンが「物語」に回収される運命を避けられないのだとすれば、「物語のなかでアスリートがどのように表象されたか/表象されなかったか」に照準を合わせ、その身体を政治やメディアの諸力が渦巻く磁場として読み直す必要がある。
張は多くの書き物を「自分の言葉で」残した。本展にも日記や書簡といった私生活の痕跡を宿す貴重な証言資料が展示されていたが、個人的にはモノローグの内容よりも、がっちりとした体躯に似つかわしくない流麗な筆跡のほうが印象に残った。写真に写るときはいつもノンアクティブな直立姿勢でこちらを見返す張の朴訥としたたたずまいと、氷盤を滑るがごとく美しく流れる筆跡の、奇妙なギャップ。人物イメージをわかりやすく結像させない、印象と印象のあいだの埋めがたい不一致にこそ、「物語-外」のアスリートの生のサインが隠れているように思えたのだ。
最後の4章で、戦後の復興と大衆的人気を誇ったスポーツの関係に言及して本展は幕を閉じる。そこでは帝国日本以降の新時代を牽引する「国民的英雄」として、朝鮮半島出身の力道山、中華民国出身の父をもつ王貞治といった様々な出自をもつアスリートの名が挙がる。多様なバックグラウンドをもつアスリートを「国民的英雄」の名のもとに一元化してしまう、スポーツにおける「国家」という強力な枠組みについて考えざるをえない。翻って現代に目を向ければ、メディアは「日本人初優勝」といったフレーズをやたらと強調し、「大きな物語」に奉仕するアスリートのひたむきさが相も変わらず好まれ、規格外のふるまいや言動はただちにバッシングを受けるという偏狭な状況がいまだに続いている。アスリートというアイコンが「物語」のなかで消費される構造を疑わなければならない。でなければ、アスリートの熾烈な身体が放つ無数のサインを読むことなど出来ないだろうし、人々はメディアの向こうにいるアスリートに最適解のふるまいを無限に求めるばかりだ。
*──オリンピアンの言葉で言えば、例えば2018年平昌オリンピック時のフィギュアスケートの宮原知子選手による「五輪に魔物はいなかった」という言葉に、アスリートに覆いかぶさる「物語」の呪縛を棄却する力をみることができるだろうか。