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「3分以内の映像作品」は2021年の「マイクロポップ」になりえるか? 布施琳太郎評「Try the Video-Drawing」

キュレーター・西田編集長とアーティスト・林千歩によって企画された「Try the Video-Drawing」(TAV GALLERY)は、すべての出展作品が「3分以内(推奨)」という制限により「映像で何ができるか」という課題に8作家が対峙する展覧会となった。本展をアーティストの布施琳太郎が「マイクロポップ」と紐付けてレビューする。

文=布施琳太郎

展示風景より Photo by SAKAI Toru

無菌室のなかで遊ぶ──2021年のマイクロポップ

 本展は、幅広い世代の8名のアーティストが「3分以内(推奨)」という条件のもとで制作した映像作品を集めたグループ展だ。その条件は「ペインティングにとってのドローイングのように、映像にとっての最も根源的な表現性と可能性を示す」のだと西田編集長によって執筆されたプレスリリースには記されている。

 では、その「可能性」とは具体的に、なにを意味するのだろうか? それは結果から述べて、これまで肯定的な評価を受けてきたとは言い難い「マイクロポップ」の可能性だと僕は考える。

 マイクロポップとは批評家の松井みどりによって提唱された概念であると同時に、彼女が手がけたふたつの展覧会のタイトルである。松井は、2007年に水戸芸術館で「マイクロポップの時代:夏への扉」を、2009年に原美術館で「ウィンターガーデン:日本現代美術におけるマイクロポップ的想像力の展開」をキュレーションした。また、これらとあわせて発行された二冊のカタログには、キュレーターによるテキストも収録された。後者のカタログで松井自身が述べているように、「ドローイングが、マイクロポップ的想像力の美術表現上のモデル」として、現在に至るまで受容されてきたことは間違いないだろう。しかしそれと同時に、ふたつのマイクロポップ展には泉太郎や田中功起、島袋道浩、大木裕之、Chim↑Pom、八木良太など、ドローイングを(行うとしても)表現の中心に据えてきたわけではないアーティストも数多く参加した。

田中功起 水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展示風景 「夏への扉-マイクロポップの時代」(2007) Courtesy: Tanaka Koki and Aoyama | Meguro 写真提供=水戸芸術館現代美術センター

 そこに集められた作家の多くが、その後、国際的な評価を受けてきたにもかかわらず、マイクロポップという概念が省みられる機会は少なく、さらに個人的な経験に基づいて述べれば、マイクロポップという言葉は(僕が在籍していたころの東京藝術大学油画専攻において)、十分な思考を伴わない繊細な触覚性によってつくられた絵画への皮肉として用いられていた。

 だが松井の論考を読み直してみると、ドローイングに限らず「既存の認識のシステムを解体させ、不定形の事象を主張すること」こそがマイクロポップ的想像力であり、それは「絵画や写真やビデオや彫刻によるインスタレーションにも適応することができる」のだと述べている。そのコンテキストは、ドゥルーズ=ガタリにおける「脱領土化」、あるいはミシェル・ド・セルトーにおける「再利用(=密猟)」といった概念に要約されるような、社会システムによって抑圧された人々の生き残りの技法に触発されて組み立てられたようである。

 つまり複数の要素(記号や象徴、あるいは絵画やビデオ)を再利用=密猟することで既存のシステムを解体し、不定形の事象としての領土を主張する遊戯的実践こそがマイクロポップなのであって、それはドローイングの肯定のためだけにつくられた概念ではない。

 ふたつのマイクロポップ展にも参加した泉太郎は、「Try the Video-Drawing」のために制作した《そんな小さな息で》において、床に伏せられた映像再生機器とギャラリストを延長コードでつなぎ(ながら切断し)、展覧会における「通電」「映像の再生」「作品売買」といった約束事を組み替えるラディカルな操作を提示した。

展示風景より、泉太郎《そんな小さな息で》(2021) Photo by SAKAI Toru

 だが泉と比較して、他のアーティストが、ギャラリーにおけるオーソドックスな展示方法を採用したことは批判的にとらえなければならないだろう。壁面に固定されたディスプレイの正面に立つことで、違和感なく映像を鑑賞できるという点において、多くの作品はあまりにオーセンティックかつ非ドローイング的だ。そこに映し出された映像が軽やかで遊戯的である場合にこそ、非日常的なディスプレイの壁面固定は──例えば水戸芸術館に展示された有馬かおるのドローイングや田中功起のインスタレーションと比較して──絵画的な方法で映像(とそこに映し出された事象)を権威化する技法であることが強調されてしまう。

展示風景より、左から小林勇輝《Camouflage》(2021)、小林勇輝《the Breath》(2016)、小宮りさ麻吏奈《スプレッド・スプレー》(2021)、メグ忍者(オル太)《のりまきのうた》(2010)、オル太《スタンドプレー vol.8 トーチ》(2021)、斉藤隆文(オル太)《此処で会ったが運の尽き》(2011) Photo by SAKAI Toru

 だからこそ小宮りさ麻吏奈による、オナホールに埋め込まれたディスプレイに鑑賞者を映し出す作品《オーラル・スクリーニング》を取り上げなくてはならない。小宮は、生殖と接触の象徴であるアダルトグッズ──それは自慰行為を想起させるだろう──を介して、1976年にロザリンド・クラウスが述べたようなビデオアートにおけるビデオ・フィードバックのナルシシズム──それはすでに伝統的な技法である──を、あまりに露骨な仕方で密猟した。都市のなかに隠蔽された性処理のプロセスは、ここでは文字通り、しかし必要以上に「高められて」私たちの頭上に掲げられたのである。本作は、小宮による映像作品《スプレッド・スプレー》と併せて鑑賞されることで、コロナ禍によって無菌室と化した都市と接点をつくりながら、その自閉的な構造こそが今日の社会においてもっとも公共的な問題であることを教えてくれるだろう。一連の操作は、まさに「不定形の事象としての領土を生じさせる遊戯的実践」、つまりマイクロポップ的想像力の産物としてとらえることが可能に思える。

展示風景より、小宮りさ麻吏奈《オーラル・スクリーニング》(2021) Photo by SAKAI Toru
展示風景より、小宮りさ麻吏奈《スプレッド・スプレー》(2021) Photo by SAKAI Toru

 また本展の企画者のひとりである林千歩による3本の映像を同時に上映したインスタレーション(?)は、作者の身体を被写体としてスクリーンに複製しながら、手作りのセットを用いて表現された「花占いによる自問自答」「鏡写しの羊のドリー」「仏像の妊娠」というそれぞれの主題によって、生命についてのトートロジカルで遊戯的な領域をつくり出している。

展示風景より、林千歩によるインスタレーション。左から《Video-Drawing:わからない(神話:タカサゴユリ女王の花占い)》、《Video-Drawing:うまく立てない(人工生命:鏡の国のドリーアンドドリー)》、《Video-Drawing:時間がない、時間がない。とても重要な日なのに(妊娠:ミズ・螺髪の生殖)》(すべて2021) Photo by SAKAI Toru
マイクロポップは、マイクロポリティカルでもある。文化の制度的な思考の枠組みやグローバルな資本主義や情報網による物神崇拝に抵抗して、「いまここ」の実質的な条件や要求に応えながら、独自の知覚や創造の場を見いだし、確保しようとするその姿勢は、個人の自発的な決定能力の、つつましいが力強い主張を示すのである。
──松井みどり『マイクロポップ宣言:マイクロポップとは何か』2007年

 マイクロポップの可能性はドローイングに限られたものではない。それは私たちの生きる社会や世界をひとつのシステムとして認めながら、そのシステムのなかに余白を見つけ出して撹乱する遊戯的介入の呼び名だ。重要なことは、自身がどのようなシステムのなかに位置付けられるのかに対して過剰なまでに自覚的だからこそ可能な、もっとも知的で異質な挑戦をすることである。

編集部

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