「パフォーマンスの全体像をともに作るための場」
『Stilllive 2026』(北千住BUoY)/「Stilllive Documents 2019–2025」展(The 5th floor)
Stilllive はパフォーマンスアートのプラットフォームである。2016年にアーティストの小林勇輝が立ち上げ、2019年からはキュレーターの権祥海を迎えて本格的に始動し、集団による上演を中心に活動を継続してきた。今年は上演『Stilllive 2026』と連動して、記録展示「Stilllive Documents 2019–2025」も開催された。


今回の上演は回遊型の形式を採っていた。舞台と客席の区別はなく、同時多発的に生じる出来事を歩き回って追うよう促される。一定の流れは設定されつつも(カオティックとはいえ求心性ももち、観客の視線を集中的に引き受ける出来事がしばしば用意されていたことは、この証左といえよう)、基本的には即興的に展開されているようだ。各演者は、持ち寄った身振りをそれぞれ実行する。それが別の演者を触発し、次の身振りを呼び寄せる。そうして、持ち寄られた身振りの総和を超えた上演が生じてゆく(*1)。上演の土台となる流れも、こうした試行の反復のなかでできあがったのだろう。
しかしわたしは、この上演を面白がることができなかった。スペクタクルとしての強度は確かに備えている。次々と生起する出来事に取り囲まれる経験は飽きさせないもので、身体操作も洗練されていた。とくに存在感を放っていたのは、英国でパフォーマンスを学んだ小林の、大柄で躍動感がある身体だ。だが、経験豊富で実力のある演者が多数集まって動けば、一定以上の強度を持つ上演が成立するのは半ば当然ではないか。だとすれば問題は、この上演が「当然」の水準を超える強度、あるいは強度とは別の意義を持ちえていたか、という点にあるが、いち観客としてのわたしはそれらを見出せずにいた。
とはいえ、上演の意義を真に検討するには、Stillliveがそもそも何を目指していたのかを把握する必要があるだろう。権の論文(*2)と、後述の鼎談での小林、権の発言を総合すれば、それは次のようにまとめられる。2010年代後半の日本では、パフォーマンスに近い実践を行う作家は、たしかに各所に存在していた。しかし作家間のつながりは弱く、誰がいて何をしているのかという全体的な布置が見えづらい状況にあった。そこでStillliveは、作家たちを集め、「各自の個性や独創性を活かしながら、パフォーマンスの全体像をともに作るための場」(112頁)を設けることで、布置を見えやすくしたうえで、作家同士のつながりを強め、互いに刺激を与え合えるようにすることを目指したのだ。
この経緯を踏まえてもなお、違和感は残った。まず全体的な布置の明確化という点から見て、集合的かつ半ば即興的な──各演者の特質が、集団に埋もれて見えづらくなりかねない(*3)──上演を活動の主軸に据えてきたことに疑問を覚えた。そのために真に重要なのは、個々の作家の問題意識や活動の内実をまとめ、広く参照可能なかたちで紹介するという、より基礎的な作業のほうであるように思われたからだ。それによってこそ、各人の共通性や争点の所在、ひいては日本のパフォーマンスアートシーンでいま何が問題になっているかも、はじめて明確になるだろう。だがStillliveは、こうした作業を比較的等閑視してきたようなのだ(*4)。

もっとも、各作家の紹介や布置の明確化は主要な目的ではなく、相互触発の推進を最大の目標として、そのために上演やその制作を行っているということなら十分に納得できる(*5)。ほかの演者の身振りに触発され、普段は取らないふるまいに至ること。あるいは、作品未満のアイデアをふるまいとして持ち寄り、ほかの演者の反応をそのアイデアを育成するための材料とすること。この形式の上演やその制作はたしかに、そうしたことに役立つ場だろう。
だが、それでも疑問が拭えなかった。観客を満足させるスペクタクルとして成立していることと、演者にとって刺激的であること(上記の意味での成功)は、無関係ではないが根本的には別の話だ。前者は、後者の成否を見えにくくする目眩ましにさえなりうる。観客を満足させられたことで、演者への刺激もまた達成されたのだと、演者自身が錯覚することはありうる。また上演を繰り返すなかで、観客を満足させうる強度を持った上演をつくることが自己目的化し、演者への刺激という初発の目的が見失われる可能性もあるだろう。今回の上演に、こうした危険性への意識がどれほどあったのかは判然としない。そこからうかがえたのは、拙い上演に終わる危うさを引き受けてでも各人が得意分野を手放し、自己変容へ向かおうとする志向というより、設定された流れに沿いつつ、観客を一定程度満足させる強度を確保しようとする志向、あるいは観客への配慮だったからだ(*6)。
わたしはこうした違和感を、すでに主催者たちに伝えている。展示内で開催された鼎談「パフォーマンス・シーンの現在」(6月6日、企画:細井昇平)に招かれたからだ。この鼎談は、前々回のわたしの地域レビュー──2000年前後生まれの若手作家が企画するパフォーマンス中心のイベント「ノン」(企画:松岡はる)と「牢」(企画:芳賀菜々花)を比較検討したもの──を出発点とし、2人とわたしとの対話を中心に据えつつ、途中で小林、権との世代間対話を挟むものだった。より若い世代の動向にも目を向け、世代を跨いだつながりを積極的につくりつつ、そこから何かを吸収しようとするStillliveの姿勢は、たしかに評価すべきものだろう。
そしてわたしはここで、Stilllive側のこの姿勢になかば触発されるかたちで、Stillliveと「ノン」「牢」の違いという論点を提示するに至った。前者は洗練された身体操作を伴い、集団的な即興を重視しているのに対し、年少世代による後者──各作家が都市内の別々の場所で発表する「ノン」、作家ごとにタイムテーブルが組まれる「牢」──は、各作家が独立して発表できる場をつくることを重視している。そこには洗練への志向というより、とにかく面白ければよいという開き直りに近い気風がある(*7)。いささか仮説的ではあるものの、このような図式を描き出したのだ。
*1──上演紹介文の以下の一節は、この性格を端的に言い表していた。 「複数の身体が集まり、互いに影響しあいながら動き続ける。(中略)行為は他者や状況への応答として、配置と運動は絶えず媒介し変化を続ける」。記録展示「Stilllive Documents 2019–2025」を見るかぎり、過去の上演の多くもこの形態を採っていたようだ。
*2──権祥海「パフォーマンスの場づくりのためのキュラトリアル実践ースティルライブ(Stilllive)を事例にー」、『GA Journal 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科論集』第4号、2023、103-119頁。
*3──今回の上演ではこの性格が目立っていたが、過去の上演のすべてがそうであったわけではない。批評家の渋革まろんは、2020年の上演についての論考(「パフォーマンス・アート」というあいまいな吹き溜まりに寄せて──「STILLLIVE: CONTACT CONTRADICTION」とコロナ渦における身体の試行/思考」、https://note.com/marronbooks/n/n310822e88aa2、2020年12月19日公開)のなかで、その上演が「13名のアーティストによるパフォーマンスがじつに乱雑に入り乱れて展開」する「狂騒」であったことを指摘しつつ、個々の作家による上演の集積として鑑賞することもできたことを、各作家の上演をそれぞれ独立で分析することで示唆している。
*4──近年の日本にこうした試みが皆無だったわけではない。小林をはじめとするStilllive参加者も名を連ねる身体表現の研究会「PORT: Performance or Theory」は、各人が活動を報告したのち討議を通して相互批評を行う会を重ね、記録者として渋革を迎え、その詳細な記録をウェブ上で公開してきた。記録が残る活動が2021〜22年に集中していることもあり、シーン全体を網羅するわけではないが、この観点から重要な実践であることはたしかだ。
*5──実際、先述の権の論文は、布置の可視化という論点にふれず、演者同士が共同作業のなかで得る刺激や、そのための場を運営するキュレーターの職能に焦点を当てるものであった。
*6──これは今回鑑賞した上演に対する評価であり、過去のStillliveが総じてこうしたものだったと断じるものではない。例えば渋革は、PORTの小林担当回の記録において、2019年の上演で武本が、「全裸」で「足に熱湯をかけてなぜか火傷するという」、「普段の武本ならば絶対にやらなさそうな」ふるまいに向かったことへの驚きを吐露している。
*7──わたしはここで、年少世代に見られるこの傾向を、桜井圭介が主宰していた吾妻橋ダンスクロッシング(2004〜13)──ダンス・美術・演劇など多様な領域の表現者が集ったショーケースで、洗練された身体統御よりはむしろ、無軌道ででたらめな身体(桜井の言う「コドモ身体」)を披露するものが目立ったという──の、隔世遺伝的なリバイバルと位置付ける(いささか性急な)仮説を提示した。
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