• HOME
  • MAGAZINE
  • REVIEW
  • 地域レビュー(東京):石田裕己評「松元悠 断片親子」「葭村太…

地域レビュー(東京):石田裕己評「松元悠 断片親子」「葭村太一 ランダムエンカウント」

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューシリーズ。本記事は、石田裕己が今年9月から10月にかけて東京で開催された展覧会のなかから、松元悠個展「断片親子」と葭村太一「ランダムエンカウント」を取り上げる。2つの展覧会から、メディアの効力への抵抗について考察する。

文=石田裕己

葭村太一「ランダムエンカウント」展示風景

言葉の強力さからの脱却

松元悠個展「断片親子」(アート / 空家 二人

松元悠「断片親子」展示風景 撮影=三木仙太郎

 松元悠は、実際の事件や出来事を取材し、それを版画に仕上げる手法で知られる。「断片家族」では、そうした手法の作品に加え、母との個人的なチャットから描く主題を決める作品や、道で拾った食器をモチーフにした石版画も展示された。

 松元は、新聞やテレビで知った事件について、報道だけでは満足せず、現地に赴いてリサーチを行ったうえで制作に向かう。こうした説明は、ある種の二項対立を想起させるものかもしれない。事件という現実への接近を可能にしているようでいて、実際には不透明で、現実をゆがめて伝達してしまうマスメディア上の報道へと対置されるものとして、より高い解像度で、真に迫ったかたちで現実を伝えようとする松元の版画があるのだ、と。しかし、松元作品はそのような単純な構図には収まらない。その絵画は基本的にかなり不可解で、それ単体で事件の様子を明瞭に伝えるものではまったくないからだ。その不可解さとは具体的にはいかなるものか。そしてその不可解さは、いったいなぜ要請されたのだろうか。

 典型的な近作として《こどもと料理がしたい》(2025)を取り上げよう。この作品は、路上でウナギを料理する2人を描くものである。ひとりはマスク・エプロン・三角巾を身に着けて料理らしさを全面に押し出しているのに、もうひとりは普段着のような黒い服で、料理らしいものは何ひとつ身に着けていない(黒いエプロンを身に着けているように見えなくもないが)。しかも、後者が手にするウナギは現実味に乏しく、ぬいぐるみのようにさえ見える。この絵画の不可解さには、2つの次元があるといえる。ひとつは、どのような事件にまつわる状況なのかが分からない、という次元。そしてもうひとつは、一見してどういう状況かを理解しがたいという、より根本的な次元である。登場人物たちがどういう関係なのか、なぜこのような状況が生じたのか、皆目見当がつかないということだ(*1)。

松元悠《こどもと料理がしたい》(2025) リトグラフ、BFK紙 70×90cm 撮影=三木仙太郎

 この不可解さは、松元が制作の過程で採用しているいくつかの方針に関係している。松元は事件を描く際、その中心ではなく周縁に位置し、通常なら事件を象徴しないとみなされるであろう場面をあえて選択する。どのような事件と結びつくのか判然としないという印象は、ここに由来するのだ(*2)。他方で、より根本的な不可解さを生み出しているのは、絵画の構図を決める際に松元が取る2つの方針である。まず松元は、事件の当事者を自ら演じ、その姿を撮影し、それらの写真を組み合わせて元絵を構成する。この結果、登場人物のほとんどが同じ外見を持つことになり、本来であれば容貌や身体的特徴から読み取れたかもしれない人物同士の関係性が把握しづらくなる。さらに松元は、事件に関わる場所を実際に取材し、その風景を作品に取り込むことをひとつのルールとしている。その結果、登場人物の行為はしばしば、ふつうならそうした行為が行われないような場所で展開されることになる。

 かくして観客は、松元の絵画のもつ不可解さに直面し、戸惑いを覚えることになる。だがそのまま放り出されるわけではない。松元は往々にして、絵画に言葉を併置する。鑑賞者はそれを読むことで、作品の背景にある事件について知り、絵画についての理解を深めることができるのだ。料理と事件はいかなる関係にあるのか。2人はどういう関係なのか。こうした謎は言葉によって解消される。そのとき、絵画と言葉とが連携し、事件の現実への接近を可能にする窓が開かれたかのような印象が生じる。

 しかしそう理解した途端、絵画の謎が再び立ち上がってくる。いったん説明を受け入れたうえで、絵画を改めて見ると、それを逸脱するものが目に入ってくるのだ。料理なのは分かるとしても、なぜウナギなのか。2人の服装の違いはなんなのか。なぜぬいぐるみなのか。絵と状況説明のあいだには、やはり埋めがたいギャップが残る。言葉による理解に対し、イメージが抵抗する、といってもいいだろう。そしてその抵抗を受けた途端に、操作にまみれていることがそもそも自明だったはずの松元の版画を、どうしてか現実への(透明な)窓として受け取り、事件を理解したつもりになってしまった自分に居心地が悪くなる。

松元悠「断片親子」展示風景 撮影=三木仙太郎

 言葉による画像の包摂は、われわれの世界に遍在しているものである。マスメディアは、言葉と画像(写真や映像)を併置することで、事件の現実を理解させたかのような印象をもたらす。しかし実際のところ、その印象を可能としているのは、言葉による画像の一方的な意味づけなのだ(*3)。

 こうした状況を踏まえつつ、これまでの議論に戻ろう。松元の版画は、こうした包摂をたんに外側から批判するのではなく、その強力さにできる限り接近したうえで、そこから脱却する契機を探るようなものだ。というのもそれは、言葉が画像の不可解さを馴致し、現実への到達が可能になったという印象が生じる事態へと観客を一度導いたうえで、その理解を揺るがし、再び不安定な状態に追いやるというかたちで機能しているからだ。こうしたありようにこそ、松元作品の意義と特異性があるのではないか。

*1──本作では比較的わかりやすいが、なかには何をしているのか判然としない作品もある。たとえば《碑をキザむ(黒鳥山公園)》(2020)では、何かを探すようにひざまずいて地面に手を伸ばす人物と、自分の髪を見つめる人物が描かれている。しかし、地面に手を伸ばす人物が具体的にどのような行為をしているのかは、絵を見ただけでははっきりとはわからない。
*2──松元はこの手法を、山下菊二のルポルタージュ絵画である《あけぼの村物語》(1953)と結び付けつつ説明している。「事件の背景と前後関係しか描かれていません。つまり、事件当日のことは描かれていないのです。『決定的瞬間を描かない』という判断を作家自らが示すこと」(三澤麦[聞き手・構成]「リトグラフ作家であり法廷画家。松元悠が向き合う、マスコミュニケーションの在り方とは」、ウェブ版美術手帖、2023年7月8日、2025年10月31日最終閲覧)。なお尾﨑眞人はその《あけぼの村物語》論のなかで、事件にまつわる当時の新聞報道などを確認しつつ、それらと絵画内容との間にあるズレを指摘したうえで、山下がここで描いたのは、「『社会に隠蔽された、もしくは隠蔽される事実』のみ」であると主張している(「《あけぼの村物語》から、そして《あけぼの村物語》へ、1950年代。」『山下菊二展』、山下菊二展実行委員会、1996年、146-151頁)。
*3──ここでわたしが依拠しているのは長谷正人の議論である(『映像という神秘と快楽』、以文社、2000年)。長谷は神戸連続児童殺傷事件に言及しつつ、単体では「事件について何かしらの情報を私たちに伝えてくれるわけではけっしてない」(69頁)写真に対して、それが事件について何かを伝えるものであると保証するために、写真と事件との関係を説明するキャプションが効果的に用いられていたことを指摘したうえで、以下のように述べる。「私たちはしばしば、『見ること』と『知ること』を混同してしまう。上手く理解できない事件の不透明さにいらいらして、顔写真や反抗の写真を『見ること』によってその気分を解消してしまおうとする。つまり『見ること』によって『知った』かのような錯覚が得たいのである。いや映像文化の飛躍的な普及が、そのような錯覚を私たちに蔓延させているのだ」(73〜74頁)。

メディアの力を相対化する

葭村太一「ランダムエンカウント」(CAPSULE

葭村太一「ランダムエンカウント」会場風景 撮影=葭村太一

 メディアはかねてより、時間的にも空間的にも遠く離れた場所と、利用者がそれに触れるいま・ここが、あたかも地続きであるかのように感じさせる装置として機能してきた。距離の感覚の抹消にこそ、メディアの大きな機能があるのだ。その意味で、現代のストリートビューもまた、典型的なメディアのひとつといえる。むろん地図は古くから、現地での道案内へと寄与するだけではなく、離れた場所にいながら遠くの土地を想像させもしてきたわけだが、ストリートビューはその後者の機能を極端に拡張したものだといえる。現地での移動の支援という地図本来の役割は、そこではほとんど放棄されているからだ。このようなメディアたちが生活に深く浸透し、距離の感覚の失効が加速する状況で、われわれはいかに生きるのか。

 葭村太一の制作は、その問いに対して独自の仕方で応答するものであるといえる。葭村が近年取り組んでいるのは、ストリートビューで発見したグラフィティを木の彫刻で再現するシリーズである。彫刻には専ら、それが入るサイズの木箱が併置され、そしてそこには、ストリートビュー上でグラフィティへとアクセスできる小さなQRコードが貼り付けてある。「ランダムエンカウント」は、こうした作品十数点をまとめて展示する個展であった。

葭村太一「ランダムエンカウント」会場風景 撮影=葭村太一

 先に述べたように、ストリートビューはきわめて強力なメディアである。あたかもグラフィティの目の前にいるかのように錯覚させる、その強大な力を前にした葭村は、しかし、あえて忠実な再現を目指さないという方針を採る。

 そもそも木は、別の質感を持つ事物を再現するには明らかに向いていない素材である。各所ごとに異なる内側の木目が模様としてはっきりと浮き出て、印象を大きく規定するだけでなく、掘ってみるまで完全に木目の様子が分からないという不確定性さえある。そうした不均一な素材を、葭村は着色することなく用いる。制作にあたって、葭村はグラフィティを完全には忘れられなはしないものの、それを一度脇に置き、目の前の木そのものと向き合う。忠実な再現よりも、木彫作品としての自律的な質のほうを優先するのだ。

 実際、展示空間で観者がまず出会うのは、あくまで木の彫刻である。着色はなく、木目がはっきりと浮かび、木の香りさえも感じられる。作品を前にしても、どんなグラフィティにもとづくものであるのかをすぐに想像することは難しい。両者の間にはかなりのギャップがあるし、QRコードを読み込んで現地の状況を確認することで、その落差を実際に体験することもできる。さらに言えば、前情報を知らない観客のなかには、グラフィティの再現とは気づかず、独特なかたちの木彫としてのみ受け取る者もいるかもしれない。

 ストリートビューを用いながらも、そこに映るグラフィティの忠実な再現を最初から目指していないという点に、葭村の作品の特異性がある。先に述べたように、ストリートビューはふつう、遠く離れた場所の現実への接近を可能とし、距離の抹消を可能にするものと見なされている。しかし葭村は、ストリートビューをそのような用途では使わない。葭村にとってそれは、現実の代理ではなく、木彫作品をつくるためのきっかけ、あるいは素材に過ぎないのだ。遠くにあるグラフィティへの接近を可能にすると謳うメディアを前にして、しかしそれを、実際のグラフィティからはかけ離れたものをつくり出すためにのみ使うこと。彫刻の自律した存在感によって伝えられる、葭村のこうした姿勢の背景に、別の場所への接続を称揚する、ストリートビューの公式的な説明に対する違和感を見て取ることも十分に可能であろう。自分はあなたを別の場所へ連れていくことができるし、そういうふうに活用してほしい、と謳うメディアの誘惑に乗らず、別の方法で転用することによって、メディアの力それ自体を相対化する。葭村の実践に見られるのは、そのような身振りなのだ。

編集部