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地域レビュー(東北):清水建人評「現代作家が見た長井 土と返し技-江口湖夏と渋谷剛史と、」(文教の杜ながい)/「若手アーティスト支援プログラム Voyage 2026」(塩竈市杉村惇美術館)

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューのコーナー。清水建人(せんだいメディアテーク学芸員)が、7月から8月までに東北エリアで開催された展覧会から「現代作家が見た長井 土と返し技-江口湖夏と渋谷剛史と、」(文教の杜ながい)と、「若手アーティスト支援プログラム Voyage 2026」(塩竈市杉村惇美術館)から、あるがあくと松田ハルの個展を取り上げる。

文=清水建人

「現代作家が見た長井 土と返し技-江口湖夏と渋谷剛史と、」より、江口湖夏によるパフォーマンス《長井でのHuman-Cultivating Machine》(2026) 写真提供:文教の杜ながい

旧跡と現代アート、土地への熱意

「現代作家が見た長井 土と返し技-江口湖夏と渋谷剛史と、」(文教の杜ながい)

 山形県長井市の「文教の杜ながい」にて、「土と返し技 〜江口湖夏と渋谷剛史と、」(キュレーション:慶野結香)が開催された。2022年から続く「現代作家が見た長井」という展覧会のシリーズである。

 2025年度の国勢調査結果が示した人口減少は、地方都市の街並みに明瞭にあらわれており、長井市でもそれは否定しえない。当市は現在、約1万世帯、人口約2万3700人。本展は、こうした状況下の長井の住民に向けて開かれている。この地域社会の現実のうえにコンテンポラリー・アートを組み立てて紹介することの意義について自問しながら展示を見た。

文教の杜ながいの外観 写真提供:文教の杜ながい

 「文教の杜ながい」を構成する江戸期からの呉服店、旧・丸大扇屋は県指定の有形文化財であり、常設展示によってかつての暮らしを伝えている。この企画展はその同じ空間の中にオーバーラップして開催されているため、この地に馴染みのない人や展示を見慣れない人は混乱するかもしれない。史跡の情報を読み取りながら、展示作家のメッセージを解釈するのは簡単ではない。また昨今、歴史的建造物の中で、現代作家が展示する形式が隆盛しているが、建物のもつ文脈や空間の意匠に作品が支えられる分、表現には抑制や調和、あるいは空間の全面支配が希求されるため難易度は決して低くない。

渋谷剛史《長井のうた〜私と菊池隆知と市民と〜》(2026)箪笥 100×90×30cm 撮影:後藤拓朗 写真提供:文教の杜ながい
渋谷剛史《長井のうた〜私と菊池隆知と市民と〜》(2026)より、版画で刷られた作品の数々 撮影:後藤拓朗 写真提供:文教の杜ながい

 本展における江口湖夏(えぐち・こな、1998〜)と渋谷剛史(しぶや・たけふみ、1994〜)の展示は、細心とはいかないものの、展示環境へのそうした意識を感じさせるものだった。木版画と版木を主な展示物とした渋谷は、持ち込んだ古いタンスや物入れにも物語を彫刻し、過去の歴史と現在の空間をつなげようと試みた。映像作品も数点あったが、ここでは版画に着目したい。版画制作の背景には、長井市出身の版画家・菊地隆知(1930〜2018)への敬意も込められているようだ。渋谷の版画は、マンガのコマ割りで画面を構成した物語構造なのだが、必ずしも読みやすくはない。それには登場人物に表情がないことが影響しているのだろう。口や鼻はあるのだが、ほぼすべての人物に目がない。そして「それら」が画面内で一定の距離をもって、こちら側を向いていることで、鑑賞者が物語へ没入することは妨げられる。マンガの物語は、渋谷のモノローグとして画面内で反復され、私と作品の距離は、絵画的な位置に保たれる。こうして長井についてのナラティブが独り言のように漂い続けることで、完結しえない現在進行形の長井を意識させるという奇妙な鑑賞体験をもたらしていた。

江口湖夏のパフォーマンス《Human-Cultivating Machine》に使用される耕うん機を模した作品 撮影:後藤拓朗 写真提供:文教の杜ながい

 江口は、人体によって擬似的に耕うん機の動作をなぞらえるアクションを実施し、使用した装置や記録を展示した。土を「耕す」ことを肉体で模倣することで表されるものは何か。社会的な抑圧や隷属性になぞらえることもできるだろうが、安易な解釈にとどまりそうだ。耕す行為に伴う地表や身体の物理的な変化は予測がつくが、体感は実践してみなければわからない。江口は社会の問題を象徴化すること以上に、そうした一回性の感覚を他者に開く方法の探求に集中しているのではないだろうか。それは2人で可能となる「耕作」(1人が足を支え、もう1人が手で土を攪拌する)を交代しながら、複数人で行っている映像記録にも明らかなように思われる。思案どころは事後的に伝える方法の開発にあるだろう。映像が出来事を明らかにしても、使用した道具や残留物の展示に、経験した現象的意識の伝達をまかせることは難しい。身体的行為と展示のあいだの距離と矛盾をどのように取り扱っていくのかが興味深いところであり、今後も注目したい。そして両名の作家から共通して感じたのは、展示によって伝えきれない留保された熱感のようなものである。おそらくこうした意識が、長井への憧憬であり土着性に接続していくのだろう。

 さて、冒頭の自問の末に行き着いたありきたりな私の解は、批判的地域主義をふまえた土着性と普遍性の和解と、その先の地域文化の継承と更新への接続である。一昔前のアプローチだが、東北の地域社会がなおも切実に探し求めている方法ではないのだろうか。とくに2011年の東日本大震災から現在までの東北でのアートの実践を振り返ると、批判的地域主義の現代化、最適化に収斂(しゅうれん)しているようにも思われるのだ。ただし、すでに普遍的価値の表象は東京など特定の場所に存在しないどころか、価値の根底が揺らいでいる現在の世界のなかで、かつての普遍性を模倣しアートを主張するのはナンセンスである。かろうじて残留している土着的情熱のなかに普遍性への意識を探し出し、アートによって培養していくほかに手段はないのかもしれない。その意味で「文教の杜ながい」のような施設こそ今日のアートの先端に位置付いている。

日常世界との調和を探る

若手アーティスト支援プログラム Voyage 2026 あるがあく展「木漏れ日蒐集」、松田ハル展「あんせすた〜〜~ず!!! Ancestors of a Virtual Town」(塩竈市杉村惇美術館)

 塩竈市杉村惇美術館にて、若手アーティスト支援プログラム Voyage 2026として、 あるがあく展「木漏れ日蒐集」と、 松田ハル展「あんせすた~~~ず!!!」が同時開催された。2015年から続く若手作家の公募企画で今回で11回目となる。審査員は、小田原のどか、鹿野護、服部浩之が務めた。

あるがあく《I pray that you will be happy》(2026)和紙、木枠、水彩絵具、水性インク、木版画、シルクスクリーン 82.2×291.5×1.5cm 丁寧に描き出された光と影は、画面に奥行きを生み出している 撮影:松山隼 写真提供:塩竈市杉村惇美術館
あるがあく《komorebi shu shu - café》(2026)和紙、水彩絵具、水性インク、木版画、シルクスクリーン 50×35cm 撮影:松山隼 写真提供:塩竈市杉村惇美術館

 塩竈市に隣接する多賀城市出身のあるがあく(1987〜)は、版画を主な表現手法としている。「木漏れ日蒐集」の名が示すとおり、作者あるがが描くのは木漏れ日の情景や印象そのものであり、木版、シルクスクリーンさらに水彩などで描写を加えて複層的な画面をつくり上げている。率直に言ってどの作品を見ても様々な光の情景を思わせるもので、高い技術が見てとれる。幾重にも折り重なる影の姿を描くことで光が表現されているのだが、描かれた影こそ私たちの存在であり、日々の心もようであると画面が伝えているように思われた。また作品ごとに木漏れ日の採集場所が示されており興味深い。美術館に近い塩竈神社や周辺の場所が示されている。採集とは、写真などで光学的に記録したというだけでなく、場の空気感や木漏れ日を眺めていた時間ごと記憶したという意思表明でもあるのだろう。日常生活の周辺環境を観察し、情景を採集し、作品として写しとることを繰り返す、作者の落ち着いた時間感覚と、この場所で暮らすことに丁寧であろうとする姿勢がうかがえる作品群であった。

松田ハル《あんせすた~~~ず!!!》(2026)パネルにキャンバス、シルクスクリーン、アクリル絵具 166.5×296×4cm 東北の海の風景とインターネット上の美少女アバターを思わせる画像がコラージュされている 撮影:松山隼 写真提供:塩竈市杉村惇美術館
松田ハルによる4Kの映像作品《Drifters》(2026)シングルチャンネルビデオ 4分5秒 Courtesy of the artist

 松田ハル(1998〜)は陸前高田市出身、3DCGと版画を駆使する。この展示「あんせすた~~~ず!!!」は、塩竈から陸前高田までの海への想像力である。塩竈湾を出て、太平洋に至り、三陸を経て陸前高田の広田湾に至るまでのイメージの旅。実際にその道程にある海岸で作者が拾い上げた陶器やガラスの破片も陳列されていた。そして展示の名前が示すとおり、距離を想像させるだけでなく祖先を探るように時間も遡行してゆく。平面作品では、東日本大震災で失われた過去の情景も想起させながら、今日のネット空間を象徴するような美少女のアバターがコラージュ的に構成されている。未整理な心情のままでも過去との接合を果たそうとすることで、新たな形態が発生することが示されているように思われる。また、3DCGの映像では時間のレンジをより幅広くし、はるか未来から過去への遡行、あるいは現在からはるかな過去への遡行が描かれる。ここで興味深いのは、過去の情景ではなく、過去への「想い」が独白的に綴られていることである。15年前の東日本大震災を含め、過去を内省的に理解していく行為の重さに比して、今日の自分自身の存在の軽さに呆然とする。誰しもそんな感慨を覚えたことがあるだろう。松田の表現は、全体を通して、そうした戸惑いを肯定する意思に満ちているように思われた。

 今回の両名の展示は、塩竈近郊や三陸地方との身体的な強い結びつきを感じるものだった。また地に足のついた態度が、作者の表現への原動力にもなっている。他方でそれは、世界への意思の拡大ではなく、足下の社会や日常生活との調和を志向していると言い換えてもよいだろう。さて、10年続いたこの若手作家の支援プログラムは、杉村惇美術館の展示空間のサイズや地域との関係性、東北という広域的な視点から見ても的確であり、そこで活動する表現者にとって需要のある企画に思われる。そして、このプログラムで選出された作家たちのその後の活躍が、企画の有効さを証明してもいる。是非、今後も継続してほしいものだ。

編集部