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地域レビュー(東京):石田裕己評 泉太郎 断面『放散虫のトーテム/プロミネンス』/梅田哲也『空洞』

ウェブ版「美術手帖」での地域レビューシリーズ。本記事は、石田裕己が2026年4月から5月にかけて東京で開催されたもののなかから、鑑賞体験の不均質さをあえて生み出す泉太郎 断面『放散虫のトーテム/プロミネンス』と、認識の不完全さを自覚させる装置を用いた梅田哲也『空洞』の2つを取り上げる。

文=石田裕己

梅田哲也『空洞』の様子。劇場内を誘導に従って歩き回る鑑賞者 ©山田翔太

 美術館、ギャラリー、映画館、劇場など、鑑賞経験を提供する場所には、通常一定のフォーマットが存在している。この時間帯に、この空間で、この機材を用いて作品を展示/上映/上演するという慣習がおおよそ成立しており、各作品の発表はそれに則って行われるのだ。こうしたフォーマットは、その場所での発表に最適なものと見なされたからこそ定着したのだろう。しかし、その自明性が疑われなくなってしまえば、そこに孕まれる問題点は見えづらくなる。さらにこの固定化が、場所が持つ潜在的な可能性を抑圧しかねないこともまた否めない。以下で扱う2つの実践は、こうした問題意識のもと、所与のフォーマットを疑ってみせる。

鑑賞体験の不均質性

泉太郎 断面『放散虫のトーテム/プロミネンス』(Space&Cafe ポレポレ坐)

 泉太郎の『放散虫のトーテム/プロミネンス』は、「Experimental Film Culture vol.7 in Japan~ポレポレオルタナティブ~」(4月29日〜5月2日、Space&Cafe ポレポレ坐)の一環として発表された。同企画は、国内では紹介の機会が限られる映像作品を上映する団体である「Experimental Film Culture in Japan(鈴木光・石川翔平・西澤諭志)」が手がけたものだ。

 泉は2000年代から継続的に作品を発表してきた作家である。松井みどりの紹介に明確なように、初期は「日常の事物や限られた条件」を用いた「一見ばかばかしいパフォーマンス」(*1)を捉えたビデオ作品──『放散虫のトーテム/プロミネンス』内でも、うち数本が上映された──で知られていたが、近年その関心は発表制度そのものの問い直しへと向かっている。その関心が如実にうかがえる実践として、「電源」(capsule、2021)、「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」(東京オペラシティアートギャラリー、2023)(*2)、《クイーン・メイブのシステムキッチン(チャクモールにオムファロスを捧げる)》(2023)などを挙げることができる。本作もこうした実践の延長線上に位置づけられる(*3)。

 本作が標的とするのは、以下のテーゼである。「ある上映会に集った人々は、特定の作品を鑑賞したという同一性を通じて、一定程度まで均質な観客共同体をなしている」。一見自明に思えるこのテーゼを、泉は徹底して疑う。そのため本作が採用したのは、ポレポレ坐という場で上映会を行う際に慣例的に採用されてきた形式──本作の紹介文が「ポレポレ坐に根付いた『自然』」と呼ぶもの──を可視化したうえで介入の可能性を探るアプローチだった。

 ポレポレ坐の上映は基本、仮設壁でカフェスペースと仕切った最奥の空間を会場として行われる。機材としてもっぱら用いられるのは、スペース側があらかじめ用意しているもの──仮設壁上側のプロジェクター、奥の壁の中央部のスクリーン、スクリーン左右のスピーカー──である。鑑賞者たちは、仮設壁を背に設置された数列の椅子へと案内される。このフォーマットは、相反する2つの条件を同時に満たすためのものだ。第1に、できるだけ多くの鑑賞者を入れること。そして第2に、一人ひとりが一定以上の快適さとともに鑑賞できるようにすること。その両立を目指して調整・選択されたものであるからこそ、多くの企画で繰り返し採用されてきたのだろう。機材を自前で用意するコストや手間を省けるという理由も、利用者にとっての利点は大きいはずだ。

泉太郎 断面『放散虫のトーテム/プロミネンス』の様子。空間の大部分を占めるテント状の立体物 写真提供:Experimental Film Culture in Japan

 しかし泉はこのフォーマットを採用しない。空間の大部分は、テント状の奇怪な──「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」からの連続性を考慮すれば、陵墓を思わせもする──立体物によって占有される。プロジェクターは起動してはいたものの、スクリーンはほとんど覆われており映像はほとんど見えない。代わりに、泉は持参したブラウン管モニターを仮設壁側の右隅へ設置し、それを用いて上映を行う。鑑賞者は会場隅に置かれた椅子を自分で動かし、それぞれ見やすい位置を探すよう促される。しかしこのモニターは、20〜30人が一斉に見るには余りにも小さい。映像をまともに見られるのは周辺の数人だけで、大半の鑑賞者は、前の人やその椅子に視界を遮られてしまうのだ。

泉が持参したブラウン管モニターを囲む鑑賞者 写真提供:Experimental Film Culture in Japan

 ここで生じるのは、鑑賞者間における鑑賞体験の不均衡の最大化である。自分に見えているけどほかの人には見えないものが、あるいはその逆があること。同じ上映会に居合わせて同じ作品群を鑑賞しているはずなのに、それぞれが経験する/できるものはまったく別であること。それぞれの鑑賞者は、そのことを痛烈に意識させられるのだ。そもそも通常のフォーマットは、こうした不均衡をできるだけ減らすという企図で設計されたはずで、それを破って独自の上映形態を導入したとき、不均衡が最大化することは半ば当然である。

 あるいはこう言ってもいい。鑑賞における一定の不均衡は、通常のフォーマットの上映会にも依然として存在する。座った場所に応じて、映像を見聞きする仕方はわずかであれ異なるはずだ。それに加えて、作品の全編を集中して見続けられる鑑賞者は稀である、ということも重要だ。ある場面はしっかり見たけど別の場面はそうしなかった、ここは寝てしまった、というような注意の偏りは、よほど短い作品でないかぎり不可避的に生じてしまうもので、また偏りのありようは鑑賞者ごとに異なるはずだ。

 実際には確実に存在する不均衡は、通常のフォーマットを導入したとき容易に覆い隠される。整然と並んだ椅子や統一された視聴環境は、みな同じ作品を同じように見た、という印象をもたらすからだ。泉はこの点に、強い抵抗感を覚えたのではないか。だからこそ、不均衡を全面化させるような別の上映形態を導入したのではないだろうか。

 さらに泉の問い直しは、作品鑑賞という行為それ自体にも及んでいる。泉はモニターを持ち込みつつも、映像の音声を流すにあたっては備え付けのスピーカーを用いていた。その音量は普段通りかそれ以上、会場全体に響き渡るくらいだ。つまり鑑賞者の多くは、映像は見えないがその音声は問題なく聞ける状態に置かれていたのだ。映像を見られる鑑賞者も、映像の位置と音声の位置との乖離に違和感を覚えることになる。鑑賞者たちの意識は、こうしてスピーカーへと差し向けられる。

 通常の上映においても、両者の出力機構は物理的に別々なはずだ。映像はプロジェクターから、音声はスピーカーから出力される。しかしそこでは、この分離はほとんど意識されない。両者を完全に同期させ空間的にも近接させることで、映像と音声がそれぞれ異なるチャンネルであるという事実は意識から消し去られ、「ひとつの作品を見聞きしている」という印象が成立するからだ。「音声を聞く」「映像を見る」という2つの行為を同時に行っているのではなく、「作品を鑑賞する」というひとつの行為を行っているのだと鑑賞者に思わせること。通常の上映フォーマットは、それを可能とする装置でもあるのだ。

 しかし泉はその装置を解除する。映像と音声の出力位置を大きく引き離し、片方のみ知覚できる鑑賞者をつくり出しさえすること。それによって、両者がそれぞれ独立したチャンネルであるという事実を前景化させる。そして映像作品という統一的な対象を感覚することの基盤に、複数の異なる知覚チャンネルをひとつに束ねる契機があることを浮き彫りにするのだ。我々がとくに意識することなくそうした統合を行えるのは、ひとつには装置のおかげであり、そしてもうひとつには、映像と音の混合物をひとつの作品として受け取るよう慣習化された我々自身の身体のおかげではないか──本作はそのように問いかけるのだ。

上演後、一列に並べられた椅子で思い思いの時間を過ごす鑑賞者 写真提供:Experimental Film Culture in Japan

 上映が一通り終わると、椅子の配置が組み替えられる。仮設壁沿いに奥向きで並んだ一列と、その目の前に反対向きで並べられた一列。鑑賞者はそこに座り、30分ほどを無為に過ごすよう促されるのだ。ただし仮設壁をノックすることで、壁の向こうのカフェスタッフに注文を伝えることができる。1回叩けばびわ茶で3回叩けばアイスクリーム、といった具合に。

 この30分は、基本は上映後にカフェを利用する時間の喩とみなせるいっぽうで、向き合う2列の椅子はどこか電車の車内を想起させもする(各人がそれぞれ自分なりの仕方で暇を潰し、与えられた時間が過ぎ去るのを待つ空間という点でも類似している)。作品体験の前後に流れる時間。泉はそれを、作品の内側へ取り込もうとしていたのだ。

 会場へと向かう時間、会場周辺を散策する時間、そして場合によっては近くの店に立ち寄る時間(とくにポレポレ坐はカフェ付設なわけで、鑑賞前後にそこを利用する人も多いだろう)。こうした前後の時間は、作品鑑賞へと必然的に伴うはずだが、ふつうは鑑賞それ自体とは無関係とされる。この通念こそ、泉が問いに付そうとしたものだったのではないだろうか。

 前後の時間と作品鑑賞の分離を自明視しない立場に立つとき、鑑賞体験の均質性への疑念はいっそう高まる。鑑賞前後の時間を、作家の側で統御することは通常できないからだ。現に本作において、びわ茶を飲んだ人と、アイスクリームを食べた人、何も注文せずに座っていた人で、与えられた30分の経験はまったく違っていただろう(もっとも、前後の時間を作品内に取り込んだことで、本来ならもっと多様なはずのその時間がびわ茶かアイスクリームかという選択の問題に還元されていた部分はあるが)。

 こうして徹底した問い直しを行いつつも、しかし泉は、「みんな違う、誰も同じ作品を見てはいない」というところに居直っていたわけではない。その姿勢が如実に現れていたのは、希望者のあいだで日程を調整し同じポレポレ坐で感想会を開くという措置であった。

 同じものを見ているわけではまったくない、均質な観客共同体ではまったくない──その前提へと執拗にこだわりつつ、しかしじっくりと時間をかけて各自に咀嚼させ再び言葉を交わすことで、できるかぎりの均質さを事後的に立ち上げること。作家を交えて感想を語る会が設けられるとしても、それはふつう上映直後に行われるもので、後日あらためて同じ場所で、という事例は稀である。直後ではあまりに急で時間が足りないし、ここでも慣例に抗わねばならない──泉はそう考えたのだろう。

 ここまで、核心にある問題に即していくつかの構成要素を抽出してきたが、実際はもっと情報量が多い上映だった。立体物を構成する様々な要素(黄色と青色の布、トムとジェリーのタオル、ニワトリの人形)、儀式めいたふるまいをする数人のパフォーマー(プロジェクターからの投影を妨害すべく周期的に棒を掲げるもの、カフェスペースから仮設壁をノックして上映作品の切り替えを指示するもの)、本物のオレンジをリンゴのような赤に彩色したうえで配布する操作......。

 制度批判的な関心と、自由連想法を思わせる手つきで思いつくままに様々な要素を配置していくことへの関心の共存は、近年の泉の仕事の大きな特徴である。そして後者の関心は、その作品をどこか不条理な、シュルレアリスムを想起させるものとしているのだ。要素がまとまりきらないまま氾濫するさまや、陵墓や儀礼といったスピリチュアルなモチーフの扱い方について、わたしは評価を留保せざるをえない。とはいえ、鑑賞者たちに作品を見せる事態を自明のものとして受け止める一歩手前で立ち止まり、鑑賞者共同体の均質性を妨げる要素を徹底的に洗い出したうえで、そうした問い直しによって特異な時空間を産み出してみせる泉の慎重な手つきから、学ぶべきものがあることはたしかである。

*1──松井みどり『マイクロポップの時代:夏への扉』(PARCO出版、2007、178頁)
*2──同展およびそこに至るまでの泉の来歴については、以下の批評に詳しい。飯岡陸+白尾芽「だらしない機関のために──Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.:泉太郎」(ART iT、2023年8月4日)(5月19日最終閲覧)
*3──過去作を中核に据えつつ新たな上映方法の開発を試みていた点では「電源」に、陵墓を思わせる大規模なオブジェを設置し儀礼的な動きも導入していた点では「Sit, Down. Sit Down Please, Sphinx.」と《クイーン・メイブのシステムキッチン(チャクモールにオムファロスを捧げる)》(2023)に通じていた。

認識の不完全さを自覚させる装置

梅田哲也『空洞』(座・高円寺)

 座・高円寺にて上演された、梅田哲也のツアー型演劇『空洞』。その上演の中核をなすのは、普段は立ち入ることのできないバックヤード(楽屋、大道具などの制作に使われる作業部屋、デスクワーク用のオフィスなど)も含めて劇場内を歩き回る経験だ。高嶋慈が指摘するように、梅田は近年「既存の建築物を舞台に、バックヤードや屋上、裏階段などを順路に組み込み、通常とは異なる導線で建築の裏/表を巡るツアー・パフォーマンス」(*4)をつくり続けてきた。本作もまた同様の手法を採るものだったといえる。先導するのは、こちらから話しかけることはできないガイドたちである。行き先を自ら選べない状態に置かれ、誘導されるがままに動く感覚。それは遊園地のダークライドや、一方通行のお化け屋敷をどこか思わせるものでさえある。

 ガイド役を担当するのは、座・高円寺で開催されてきた「劇場創造アカデミー」の修了生・在学生や普段から劇場で働く聴者・ろう者のスタッフたちだ。上演の設計にあたっては、劇場関係者へのヒアリングが念入りに重ねられたという。実際ガイドたちが口にする台詞の一部は、関係者たちが劇場について語った内容をそのまま採用しているようだった(*5)。

 以上の整理から明確になるのは、劇場のインフラを可視化する性格を『空洞』が強く持っていた点である。公演を成立させるうえで不可欠でありながら、普段は人目には晒されないもの──立ち入れないバックヤード、スタッフの労働、それらを露呈させることに眼目がある上演だったかのように思われてくるのだ。

バックヤードも順路に組み込まれている ©山田翔太
風船やホーンスピーカーなどが宙に浮かんでいる ©山田翔太

 しかし、この整理に納得しきれない部分もある。本作は明らかに、一般にスピリチュアルと呼ばれるような側面を持つものでもあった。超自然的ないしはそれに準ずる奇妙な現象への関心が、上演全体に散りばめられていたのだ。受付する前に目撃する、風船やホーンスピーカーなどが宙に浮かぶ光景。人気のないガラス張りの楽屋が醸し出す、どこか異空間のような雰囲気。カーテンで覆われた狭い空間にひとりのガイドが入るやいなや別のガイドが現れる、まるで変身したかのような場面。各空間における奇妙さの演出とバックヤードの露呈を、梅田はほとんど同時的に遂行してゆく。両者のあいだになんの区別も設けていないかのようだ。2つ──さらには、本上演において両者と並ぶ重要なモチーフをなしていた地震──を等価に扱うこと(*6)を、梅田に許したものとはなにか。

 「我々が生きる世界とはこういうものだ/世界に含まれるのは、こういうものたちだ」。わたしたちは誰しも、こうした把握をあらかじめ持って生きている。日常生活を安心して送れるのもそのためだ。そしてその把握の外にある何か──存在自体は認知されていたものの、ほとんど意識されていなかったものも含め──と出会うとき、人は自分の世界把握の不完全さに直面する。一通り驚いたあと、自らの世界に対して持っていた認識を修正することとなるのだ。この経験への関心こそ、まさに梅田の中核にあるものなのではないだろうか。可能なかぎり外部から素材を持ち込むことなく、その場にもとから存在しているリソースを最大限に活用してこの経験を立ち上げること。普段は立ち入れない場所も含むツアーという形式は、そのうえでもっとも適しているからこそ採用されたのではないか。

 思えば先に挙げた3つのモチーフ──インフラの提示、超自然的な現象、そして地震──は、すべてこの経験と密接に関わるものだ。未知の空間へと誘導されるなかで、あらかじめもっていた劇場空間のイメージが刷新されること。ふつう出会うことのない奇妙な光景に直面すること。足元にある断層の存在が、地震を契機として一挙に露呈すること。3つのモチーフの連結を可能にしたのは、より根本にあるひとつの関心だったのではないか。逆に言えば梅田にとって、通常であればスピリチュアルと呼ばれるような諸々の現象は、自然の埒外にある異界に属するものではまったくない。それはむしろ、もともと現実のなかに潜在しているが普段は見えずにいる、劇場のバックヤードや断層と近しいものなのだ。

*4──高嶋慈「artscapeレビュー 梅田哲也展 wait this is my favorite part 待ってここ好きなとこなんだ(1期)」(artscape、2024年1月15日)(5月19日最終閲覧)
*5──ただし本作は、ガイドたちの語りをじっくり聞ける状況をつくろうとはしなかった。語りの途中で移動を強制される、周囲の物音に邪魔される、手話であるためリテラシーがないと読み取れない……関係者たちの語りを十全に響かせることに、本作の主眼がないことは明らかだったのだ。インフラの提示を主眼とする上演として本作を受け取ることに、わたしが抵抗感を覚えた理由はここにもある。
*6──観客たちは上演の最初、座・高円寺1というホールの真ん中にしつらえられた観客席へと案内される。そしてそこで俳優による語りを聞いたあと、疑似的な地震を体験することとなるのだ。なおこの流れは、上演の最終盤においてもう一度反復された。

編集部

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