アウェイな環境から生まれる表現
松岡はる主宰「ノン 第一回」(吉祥寺周辺)

昨年11月27日の19時頃、私は吉祥寺マルイ(*1)へ向かっていた。松岡はるの《生活ってなに》を観るためだ。SNS上で公開された地図によれば、それはエレベーター内に展示されているという。同作は、「ノン」というアートイベントの一部だった(*2)。「ノン」は松岡自身による企画であり、パフォーマンスを中心とした複数の作品を、一晩、ほんの数時間だけ吉祥寺でゲリラ的に出現させる、というのがその基本的な開催形態だ。今回は「第一回」と銘打たれているが、前身である「点滅」(昨年5月に第1回を開催)を含めると、実質的には4回目にあたる。
それらしき場所に着き、ボタンを押して少し待つ。エレベーターが到着し、扉が開く。するとそこにいたのは、掃除をする1人の若い女性だった。はっきり清掃員だと分かるユニフォームではなく、普段着にエプロンという格好だ。家事を思わせるラフな装いで、商業施設の清掃員としては違和感があるが、そういう職場環境なのだと考えれば納得できなくもない。彼女は、床や外壁の掃除にひたすら没頭していた。こちらを向き、顔をはっきりみせることはない。
彼女が松岡であることはほぼ間違いないと思われたが、確信しきれなかった。半ばじろじろと、半ば遠慮がちに視線を遣る。エレベーターを間違えたかもしれない、作品は別にあるのかもしれない、清掃員が来て発表を中断した可能性もある──このような雑念が次々と浮かび、彼女を作品とみなして安全にまなざすことはできなかったのだ。そうこうしているうちに、エレベーターはすぐに別の階へ到着する。その間、約十数秒、ほんの一瞬というほかない。ほかの利用者の迷惑になるので、そのまま長時間滞在しつづけるわけにもいかない。戸惑いは尽きないまま、私はそそくさとその場を後にする。
松岡と面識のある私自身ですらこうだったのだから(なにしろ、松岡の誘いを受けて以前の「点滅」や「ノン」に参加したことさえあるのだ)、松岡の風貌をよく知らない鑑賞者のなかに、より強い戸惑いを覚えたものがいたであろうことは想像に難くない。「ノン」の存在を知らないビルの利用者の多くに至っては、これがアーティストによる介入だとすら気づかずに通り過ぎたはずだ。
本作をめぐっては、「メンテナンス・アート」を標榜しつつ公共空間における清掃労働に着目したミエレル・レーダーマン・ユケレスの実践など、不可視化されがちな家事(的)労働に光を当てることを試みてきたフェミニスト・アートの文脈から論じることもできるだろう。しかし、ここでは別の文脈との接続を試みたい。すなわち、本作および「ノン」という企画が強く意識していると思しき、1960年代の日本などで頻繁に見られた都市空間でのゲリラ的なパフォーマンスとの関係だ(本作が真っ先に想起させるのは、ハイレッド・センターによる《首都圏清掃整理促進運動》(1964)であろう)。
そうしたパフォーマンスは往々にして、公共空間の一角を疑似的に占有することを試みるものだった。行為を通して周辺の人々の注意を引き付け、場の雰囲気を一変させ、「いまこの瞬間から、この場を掌握するのは私だ」と宣言する。インスタレーションについて論じるボリス・グロイスの言葉を借りれば、公共空間の「象徴的な私有化」(*3)と呼べるような身振りだ。彼らがそのような試みを行ったのは、現行の秩序が浸透しきった都市空間の只中に、周囲から隔絶された特異な場を打ち立てるためだった(*4)。パフォーマンスに居合わせる鑑賞者に対して、いまここを超出するような経験をもたらそうとしていたのだ。
松岡が普段着にエプロン姿でエレベーターを掃除するとき、彼女はまさにこの「象徴的な私有化」を文字通りに実演している。商業施設とはいえ、不特定多数が訪れうる公共的な場であるはずのエレベーターを、あたかも自分が普段居住し生活する空間であるかのように掃除することで、その内部をどこか異質な空間へと変貌させる(*5)。「ノン」を知らないものも含め、エレベーターの利用者たちをそうした空間へと誘いこもうとしていた点で、本作は60年代的な実践群と明確に地続きだ。
かといって、松岡がそうした実践を素朴に反復していたというわけではない。施設を利用する人々にせよ、「ノン」を目当てにやってきた鑑賞者にせよ、松岡によって掌握され、周辺から隔絶された空間へと入った、とはっきり認識することは難しい。先に述べたように、松岡と清掃員とのあいだにある境界はとても曖昧で、その行為は普通の清掃と誤認されかねないからだ。そして、仮に異質な空間に入ったという認識が生じても、それはすぐに中断されざるを得ない。エレベーターという場が、すぐに脱出するよう要請してくるからだ。ここは私が私有する空間だ、と告げる松岡の声は、あまりにか細いのだ。
「ノン」の企画それ自体も含めて、行為を通じて空間を占有する戦略を生真面目に反復しつつも、それを妨げる条件もあえて同時に引き受けること。継承しつつ、同時に距離も取っているという点で、松岡はこの戦略に対してアンビバレントな態度を取っているように思える。この距離には2つの側面がある。清掃員と見分けがたい装いや、エレベーターという状況設定ゆえの鑑賞の瞬時性は、現行の秩序に対する外部のような空間を創出する余地が、現代の作家にはもはやほとんど残されていないという厳しい認識の表れとして読める。しかし同時に、介入のささやかさはまた別のことをも示している。つまり、非日常や異空間を大々的に宣言するような派手な行為の限界が明白になったいまでも、生活空間に紛れ込んでしまいかねない地味な行為には、外部を垣間見せる可能性がわずかながら存在しているかもしれない、という認識を、そこに見て取ることもできるのだ。この二重の距離を前提に、松岡は介入を実行してみせる。エレベーターに乗り込んだ者が、たった一瞬、周辺の空間とは異なる場への越境を感覚する、そういった可能性に賭けてみせるのだ。
ここで、松岡および「ノン」について補足しよう。2001年生まれの松岡はるは、武蔵野美術大学在学中から吉祥寺のArt Center Ongoingにインターンとして関わってきた。「ノン」とその前身である「点滅」が吉祥寺を基本的な舞台としているのは、この活動を通じて得た人的なつながりに、企画が大きく依拠しているからだ(*6)。
「ノン」という試みの核心のひとつは、先行世代を中心とする既存のアートスペースや人的ネットワークと協力しながら、そこに還元されない独自の発表の場をつくり出そうとしている点にある。その場は、街中での発表を基本とし、しかも一晩のうち数時間しか行わないという時間的な制約のもとに置かれている。その点で、慣習的な展覧会の形式とは大きく異なる。
こうした条件は、パフォーマンスという表現形式と親和性が高い。「ノン」が表向きはパフォーマンスイベントを標榜していないにもかかわらず、パフォーマンスが中心となっているのはそのためだろう。そもそもパフォーマンスは、一般的な展覧会空間とは相性が悪い。展覧会は基本的に、長時間の開場と、観客がどのタイミングで出入りしても同様の鑑賞経験が成立することを前提としている。また基本的に最低でも数日間の会期が前提される以上、特定の行為を継続するタイプのパフォーマンスでさえ、その形式に収めることは容易ではない。「ノン」の重要性はまずもって、支配的な形式との相性の悪さゆえに等閑視されかねない若手作家によるパフォーマンスを、まとめて通覧できる場をつくり出している点に認められる。



しかし「ノン」の意義は、そうした発表機会の創出にとどまらない。松岡が参加を呼びかける表現者の多くは、現代アートの文脈で活動する若手であり、一般的な展覧会という形式での発表をある程度内面化している。「ノン」はそうした作家たちを、普段とは異なるアウェイな環境へと放りこみ、そこで表現を行うという課題へと取り組ませる。必ずしも作品を見に来たわけではない人々の目に晒されるという、全体に共通する条件はもちろんのこと、マルイならマルイ、バーならバーという具合に、作家はその空間に固有の性格をふまえたうえで作品を構想しなければならないのだ(パブリックアートの制作を頻繁に依頼されるほどの地位を得た作家ならともかく、若手であればこうした機会は基本的に稀であろう)。さらに松岡はパフォーマンスを主軸に活動しているわけではない作家にも「ノン」への参加を呼びかける。パフォーマンス中心のイベントへと誘うことで、自分がこれまで培ってきた技術や表現語彙を十全には生かせない表現形式に挑む機会を与える。松岡はこのように、通常の展覧会では生まれにくい実践を誘発しうる構造をつくり出しているのだ。
*1──同作は、19時から20時には吉祥寺マルイで、20時から21時にはアトレ吉祥寺で、21時から22時は吉祥寺PARCOで実施された。
*2──ほかの出品作家は、村田峰紀、金光虎次郎、砂田紗彩、細井昇平、船橋陽南乃。開催時間は19時から22時。
*3──ボリス・グロイス「インスタレーションの政治学」星野太・石川逹紘訳、『表象12』(月曜社、2018、69頁)。この論考の中核をなしているのは、キュレーターとアーティストの差異についての議論である。グロイスによればキュレーターは、「空っぽで中立的な公共空間」(67頁)としての展示空間を「大衆の代表者として」(67頁)管理しているがために、「公的に責任を負」(71頁)っており、自分自身の選択の正当性を論証によって人々に対して説明する必要がある存在である。対してアーティストは、「公的な展示空間を象徴的に私有化する」存在であり、「その展示に含まれるオブジェの選択や、インスタレーション空間全体の構成について、芸術家がそれらを公に正当化することは想定されていない」のだ(69頁)。「この空間に入ることにより、来場者は民主的な合法性を付与された公的な領土を離れ、主権的かつ権威主義的にコントロールされた空間へと参入する。いわば、ここにおいて来場者は、違法のちにある難民なのだ。彼らは国外追放者となり、芸術家によって課された異国の法に従わねばならない」(71頁)。
*4──例えば黒ダライ児は、60年代の都市空間などで展開された「反芸術パフォーマンス」を包括的に論じた『肉体のアナーキズム』(grambooks、2010)のなかで、そうした実践の狙いのひとつを、わたしのここでの要約に近しい空間論的な語彙によって整理している。黒ダによれば、当時の実践者たちが置かれていたのは「都市規模の均質化」が急速に進行する状況であった。彼らはそこにまだかろうじて残されていた「時間的・空間的な隙間」を占有し、奇妙で往々にして過激な「儀式」を立ち上げる。そうすることで、「こぎれいな都市空間のなかに農村的なもの」を出現させるなど、周囲とは断絶した別様の場を切り開こうとしていたというのだ(481〜482頁)。また赤瀬川原平は後年の回想(『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録』、筑摩書房、1994)において、自分がハイレッド・センターにおいて試みたのは、「自分のアトリエみたいに町の中を歩いて」みせることで、「いまだ芸術という言葉で開封されていない作家のアトリエ内の状態というものを、そのまま町全体に拡大」することであったと述べている(14頁)。赤瀬川にとってアトリエとは、彼が芸術の本質と見なす「秘密芸術」が全面的に顕在化する場であった。「秘密芸術」についての赤瀬川の記述は曖昧ではあるが、「ナマの芸術、というかモロの芸術」、「不定形な有機的スタイル」、「生活空間一般に地つづきでつながっている」(すべて12頁)といった表現をふまえれば、それは個々の制作行為に先んじて存在している芸術家の創造的な力、あるいは創造する芸術家自身の生のようなものであると捉えられる。こうした「秘密芸術」は、絵画や彫刻といった「ある一定した固いスタイル」(12頁)を生み出す源泉でありながら、作品というかたちに定着された瞬間に見えなくなってしまう──「芸術のスタイルだけは公的に示されているにしても、芸術そのものはそのスタイルの奥の方に隠されているのです。ある種の暗号みたいなもので表を固めて、その奥深くに隠れ潜んでいるのです」(11頁)。対してハイレッド・センターが路上で行う特異な行動は、作品という媒介を取り払い、「秘密芸術」を直接に出現させようとする試みであった。それによって、アトリエに近しい空間を都市の内部に局所的に創出しようとしていたわけである。さらに赤瀬川は、そうした異質な局所を生み出す実践を積み重ねることで、東京全体をまったく別様なものへと変化させることさえ期待していたとさえ述べている。
*5──公的空間に対する私的なものの濫入は、松岡が一貫して関心を寄せているテーマであるようだ。例えば、(わたし自身は未見だが)「点滅」の第2回(2025年7月)において松岡は、父親が撮影した自分の幼少期のホームビデオを編集し直し、スペインバルであるカフェ モスクワで上映している。
*6──そもそもこの企画は、松岡および「点滅」の段階では企画に参加していたヤマモトオルが、Ongoing代表の小川希を通じてビデオインフォメーションセンター代表の手塚一郎と面識を得たことに端を発するものであるという。吉祥寺のハモニカ横丁内に複数の店舗を構える経営者であり、撮影協力を通じてアングラ演劇といった前衛芸術の動向に関与してきた手塚が、自身の店を新企画の会場として貸すことを快諾したのだ。さらに、村田が「ノン 第一回」に出品していることに顕著なように、Ongoingとの関わりが深い中堅作家による協力も見られる。
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