たべる、しぼる。
環境とはなにか。気候変動やエコロジーをめぐる言説が飽和するなか、この語はしばしば、人間の外側に広がる自然、保護されるべき背景として想像されてきた。環境という用語の理解に対する議論は数知れないが、「環境」はもはや遠景ではなく、私たちの食卓や身体の日常に直接入り込む切迫した問いとなりつつある。
「TOPコレクション 明日の食卓」(東京都写真美術館)
本展は、東京都写真美術館が収蔵する約3万9000点から「食」をテーマに14作家を紹介するコレクション展である。会場冒頭の挨拶文が述べるように、「食」と「生きること」は当たり前ではあるが切っても切り離せない関係にある。本展は、食を手がかりとすることで、記憶や人とのつながり、高齢化や孤食といった社会問題への問いを写真及び映像作品から浮かび上がらせる。

4室構成の冒頭、第1室「あのとき、あの食卓で」に並ぶのは、食卓が記憶の器であることを示す作品群だ。島尾伸三の「生活 1980-85」シリーズ(1980-85)は、妻の潮田登久子と娘と暮らす日々の朝食を写し、短い文を添えることで、その光景を見る者自身の記憶と重ねあわせる。あるいは、潮田による、食品がぎっしりと詰まった冷蔵庫の扉の内側を写した写真、野口里佳が窓辺の逆光のなかに捉えたきゅうりの蔓の繊細な陰影、そして原美樹子の日常と広告イメージの関係をとらえるスナップなどを経て、展示は川内倫子の《Cui Cui》(2005)へと至る。13年にわたる家族の記録を223点のスライドショーとして構成した本作は、祖父の死と新しい生の誕生を同じ時間の流れに置き、法事や祝いの席で囲まれる食事の場面をその蝶番とする。食卓とは、生と死のサイクルが日常のかたちをとって現れる「メディウム(霊媒)」でもあることを川内作品は示す。

第2室「食と地域のあいだに」で筆者の目を引いたのは、宮本隆司《サッポロビール恵比寿工場》(「建築の黙示録」シリーズより、1990)である。解体直前の工場を写したこの写真の土地には、現在、恵比寿ガーデンプレイス、そして東京都写真美術館そのものが立つ。あえてこの展示室を支える柱に本作の一点をかけることで、「食」について展示する美術館の床下に醸造産業の記憶が埋まっているという(建築の)構造を象徴的に浮かび上がらせている。また、沖縄の写真家・山田實が写す子供の手と魚の双方を握る漁師の手つきや、奈良原一高が記録した東京の断片、竹谷出が小浜島で出会った居眠りする子ヤギなどは、食が地域の労働、身体、そして動物たちとの距離の近さに根ざしてきたことを静かに伝える。

第3室「環境のなかで」は、米の価格高騰やクマの出没、そして福島第一原子力発電所事故から15年という現在に言及している(*1)。宮崎学が捉えた、リンゴを食らうハクビシンや凍結防止剤を舐める猿は、人間の生活圏に入り込んだ野生を写し、土田ヒロミによる福島県飯舘村の定点観測は、原発事故後の人間不在の風景を写し出す。また、水面すれすれから陸地をまなざす楢橋朝子の「half awake and half asleep in the water」シリーズ(2000-01)は、視点をわずかに水中へ沈めるだけで、都市の風景を不安定に揺らぐ他なるものへと変貌させ、陸の上の食生活を当然のものとして支えてきた足場そのものを相対化する。楢橋の水の流れに乗るようにして、鑑賞者は展示室奥の岩井優の映像《Galaxy Wash》(2008)へと接続される。様々な食材や器が水槽のなかで介入する手によって洗われ続けるこの映像は、洗われるモノたちのカテゴリーの差異を無効化し、衛生という概念そのものを逆説的にどこか不快なものとして感受させる。この展示室では人間の生活圏と野生の生活圏がひとつづきの風景であることが、複数の視点の落差によって体感される。そして最終室「明日の食卓」では、折元立身の「おばあさんのランチ」シリーズ(2014・2019)を中心に、作家が高齢の母や地域の高齢者たちと食卓を囲む映像が並び、孤食の時代における共食を、パフォーマンスであると同時にケアの実践としても提示する。

本展はタイトルに「明日の」と冠しながら、展示の重心は明らかに過去の記憶と現在の危機との連続にあり、未来についてはその問いの多くを鑑賞者の想像力に託している。生成イメージが氾濫する近年のメディア環境において、写真は「あのとき」(ロラン・バルトの言う「それは=かつて=あった」)しか写せないメディアであるという原理への信頼は、もはや自明ではなくなりつつある(*2)。そのなかで写真美術館が物理的なプリントを収集し続けていることは、今日では「過去」の記憶の担保となると同時に、あらためて未来を写した写真は存在しないという命題そのものの再考を促す。だからこそ、印画紙によって構成された本展における「明日」は、食べることをめぐる過去の記憶の集積が鑑賞者の想像力のなかで反転するときにのみ立ち上がる。テーマ型コレクション展の宿命として、個々の作家の文脈が「食」という広範な主題へ平準化されかねない点は指摘しておく必要はあるが、「食」という普遍的な主題の未来を、この写真の過去性のうえで引き受けた点にこそ、本展の説得力があるだろう。
「榨の儀礼」(東京藝術大学 上野キャンパス 大学会館 2階展示室)
東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科の有志の学生キュレーターチームによる企画展「榨の儀礼」は、上野キャンパスの大学会館2階でわずか3日間だけ開かれた2人展である。手偏の「搾」でなく、木偏があてられる「榨(しめぎ)」とは、菜種や葡萄などの植物を圧搾し、油や酒を取り出す道具のことであるらしい。本展はこの行為を、人間が植物に用途と意味を与え、社会のなかで利用してきた営みの総称、すなわち太古から繰り返されてきたひとつの「儀礼」として捉え直す(*3)。

アンドレア・パラシュティの《The Killer Chrysanthemum》(2022)は、蚊取り線香の原料である「除虫菊(ダルマチアピレトラム)」を追う写真と映像のプロジェクトである。原産地であるクロアチアから、広島県尾道市、蚊取り線香を製造する大阪の金鳥工場まで、私たちの生活にまで浸透しているこの除虫菊をめぐる様々な歴史や記憶を追い、そのリサーチの道程を写真や映像で示している。例えば、除虫菊は北海道のアイヌの土地を再編した植民地的な力学のもとでも栽培されていた。また原産地にて収穫を担った女性たちの労働が、ジェンダー格差と地域経済との関係において成り立っていたこともイメージの連なりのなかに示される。あるいは、植物は政治的意図のなかでその都度イメージをつくり直されることもあるが、外交の場ではその操作はさらに露骨である。日セルビア国交樹立130周年の記念刊行物(2011)は、除虫菊の図版に、異なる種であるにもかかわらず、セルビアで親しまれている「ヒナギク」の説明を添えたという(*4)。そこでは「除虫」の来歴、すなわち殺虫剤としての効能が消去され、純潔や女性性を連想させるヒナギクの象徴性と文化的な親しみやすさが、植物学的な正確さに優先されるのだ。映像内のアニメーションでは、除虫菊自身が「ブハチ(クロアチアにおけるダルマチア産の除虫菊を指す)」としてセルビア語で語っている。「ブハチは言う。『虫め。』/蚊は言い返す。『殺虫剤め。』」(*5)。殺すものと殺されるものが悪態を交わす軽やかな応酬は、映像の終わりに響く学校のチャイム、そして実験で動かなくなる蚊の小さな死と重なりながら、国家や科学による植物の利用や操作が、ほかの生命の犠牲と隣り合わせにあることを示している。こうした複数の角度からのリサーチは、農学者や歴史家から詩人や歌手までを含む共同研究者たちとの学際的な専門家のネットワークによってなされており、本作の厚みを支えている。

いっぽう、菅亮平が主題とするのは、第二次世界大戦末期、「二百本の松で飛行機は一時間飛ぶ」という謳い文句のもと国家事業として推進された松根油である。当時の資料をもとに再現された《松根油乾留装置》(2025)のガラス器具と金属配管は、一本の松に燃料という役割を割り当てられていく道筋を、蒸留の器具として目の前に再演(rendering)する。蒸留を通して、作家により実際に生み出された試薬瓶の《松根油》(2025)が傍らに置かれる。また、横に展示されている『寫眞週報』第349号(昭和19年11月29日号)は、その技術的な実現可能性以上に「松が国を救う」という物語を流通させたプロパガンダの一端であり、ここでは油だけでなく、松のイメージそれ自体が戦争の力学へと動員されていることがわかる。加えて、《松根油乾留装置》と《松根油》のあいだの空間では、サウンド・インスタレーション《無題》(2025)による、6000ヘルツ付近のほとんど無音とも思えるゆらぎのような音が流されている。この音は禅語「閑坐聴松風(かんざしてしょうふうをきく)」の静けさと、爆撃による耳鳴りの状態とをひとつの音響のなかで交差させているという。松が象徴してきた静謐さと戦争の記憶が、ひとによっては聴こえないほどの微細な音域のなかで混ざり合い、アクチュアルな音響とヴァーチャルな戦時記憶とが重なりあう境界の領域を、聴覚を通して開くのである。

本展は、「菊も松も、はじめから殺虫剤や燃料であったわけではない」(*6)という単純明快がゆえに「根深い」事実を浮かび上がらせている。照明を少し落とした展示室で、壁面の写真や松根油の蒸留装置、映像内で円形に投影される顕微鏡イメージなど、2人の作品に示される様々な「装置」がオープンな動線で結ばれ、鑑賞体験の過度な演出を抑制することで、こうした複数の装置いまつわる歴史的事実や背景に鑑賞者を静かに立ち会わせている。いっぽうで、鑑賞者に高いリテラシーを要求する学内展示でもあるがゆえに、本展が3日間で消えてしまうという会期の短さは惜しまれる。もし本展がタイトルの通り「儀礼性」に注目しているのであれば、例えば、短い時間でもこの厚いリサーチを身体的に感覚可能とするパフォーマティブな仕掛けなどもありえたのではないだろうか。本展のもつリサーチ・ベースド・アート(*7)特有の鑑賞の難易度への懸念はあるが、本展の英題「The Ritual of Rendering」の「レンダリング(rendering)」が、画像の描画と油脂の精製という複数の意味を担うのだとすれば、植物をとりまく状況から歴史への想像力をかき立てる本展もまた、ひとつの「榨り」である。一回ごとの実演としてはその都度消え去りながら、何度も「再演 rendering」として繰り返されることそれ自体が儀礼性なのだとすれば、花を咲かせたあとすぐに枯れてしまう植物のように、わずか3日間で消えてしまう本展のエフェメラル(刹那的)な儚さは、その儀礼性を損なうどころか、むしろその条件そのものなのかもしれない。

食卓の湯気の先にも、蚊取り線香の煙の先にも、植物や動物、すなわち「環境」と呼ばれてきたものたちを利用し、意味づけてきた営みの歴史が横たわっている。環境とは、あらかじめ与えられた自然ではなく、人間と非人間のあいだで繰り返されてきた利用と意味づけの集積、およびそこに付帯する記憶の連続であり、台所や工場、食卓や戦場といった社会の様々な領域を貫いている。写真や映像は、その記憶を保存すると同時に、ときに製造もする。2つの展覧会が浮かび上がらせるのは、とりわけ近代において加速したこの営みが、遠い過去や遠い異国の、すなわち私たちの「背景」の出来事ではなく、いま目の前のテーブルの上で現に続いているということだ。
*1──第3室壁面テキストより。
*2──ロラン・バルト『明るい部屋──写真についての覚書』 花輪光訳、みすず書房、1985年を参照。
*3──本展ハンドアウトより。
*4──会場内に置かれた作家による論文「『除虫菊』と植物の誕生」より。
*5──会場内に掲示された映像内アニメーションの歌詞対訳「ブハチの歌」より。
*6──前掲ハンドアウトより。
*7──学術的な調査を実施し、そのプロセスや結果を作品に落とし込む現代アートの手法。





























