平面メディアでどのように時間は表現できるのか。この問いは決して新しいものではない。18世紀にレッシング(1729〜81)は『ラオコン』(1766)において、絵画と詩の表現手段の違いを論じ、前者を空間的に並置された形態を扱う芸術、後者を時間的に展開する行為を扱う芸術として区別した。この区分はその後も長く西洋の芸術に影響を与え、モダニズムの理論へと受け継がれていく。クレメント・グリーンバーグ(1909〜94)は「モダニズムの絵画」(1960)において、絵画をほかの芸術から区別する条件として平面性や支持体の物質性を重視した。モダニズム絵画の歴史はしばしば平面性の探究として語られてきた。しかし、こうした平面性への志向は必ずしも時間経験の否定を意味していたわけではない。むしろそこには、視線の移動や反復、リズムといった平面ならではの時間的経験を見出す可能性も含まれていたと考えることができる。
ギンザ・グラフィック・ギャラリーで開催された「井口皓太展」と国立西洋美術館で開催された「チュルリョーニス展」の両展を見ると、それぞれの方向性から、平面と時間の関係をめぐる接点が浮かび上がってくる。
平面メディアにおける時間経験の可能性
ギンザ・グラフィック・ギャラリー第414回企画展「井口皓太 モーショングラフィックス」(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)
井口の実践から浮かび上がるのは、グラフィックと時間の関係への継続的な関心である。モーショングラフィックスや映像演出を中心に活動してきた井口は、静止した図像に単純に動きを与えるのではなく、グラフィックを時間的な経験として再構成する試みを続けてきた。本展もまた、その延長線上に位置づけることができるだろう。展示の中心となるのは、石井伶、三重野龍、佐々木拓/金井あきとの協働による新作群である。それぞれの作家の方法論を通じて、幾何図形や文字、紙といったグラフィックデザインの基礎的な要素が問い直される。そこで扱われるのは完成され固定されたデザインというよりも、その背後にある構造や原理、プロセスである。規則的な反復、文字と身体との関係、紙面の連続性といった性質は、固定された造形としてではなく、時間的な変化を伴う現象として提示されていた。



三重野龍との作品《OUTLINE LIGHT》では、平面の文字が光のオブジェとして展示空間へ展開される。モニターという平面環境から解放された光の線は、時間のなかで移ろう軌跡となりながら、身体的に知覚される表現へと変化していく。石井伶との作品《POINTLESS CLOCK》では、時計というモチーフを用いながら、幾何図形が互いに呼応し、反復と変化のリズムを生み出している。佐々木拓/金井あきとの作品《MULTIPLANE BOOK》では、平面に描かれたイメージがパラパラ漫画のように連続的な変化を見せる。ページの重なりによって立体的な奥行きが生まれ、鑑賞者はページがめくられていく動きを見ることで時間的な展開を経験する。
本展で提示されているのは、図形の反復や変形、文字の出現と消失、視線の移動によって生じるリズムである。鑑賞者が経験するのは明確なストーリーというよりも、形態が変化し続ける過程そのものだ。ここで時間は物語を進行させるためというよりも、形態や構造を知覚するための条件として機能しているように見える。その意味で本展は、モーションデザインを映像表現のひとつとして紹介する展示にとどまらない。むしろ、グラフィックデザインをどこまで拡張できるのか、という問いに向き合った試みとして捉えることができるだろう。平面上で成立していたイメージは立体へと展開され、さらに光や運動を伴いながら空間へと広がっていく。その過程でグラフィックは、視覚情報を伝達する媒体であるだけでなく、身体的経験を組織する装置としても機能しているように思われる。
地下1階では、井口が拠点としてきたCEKAIでの仕事がまとめて紹介されている。広告やブランディング、映像演出など領域横断的な実践の数々はたんなるアーカイブではなく、本展のテーマを補足する役割を果たしている。また2階では、過去の実写映像から長尺作品まで、井口の実践を異なるスケールとリズムで体験することができる。
平面に時間を与えること。それは図像を動かすことではない。視線の流れや身体感覚を含む知覚のプロセスそのものを設計し、見るという行為に新たなリズムを与えることである。本展は、平面メディアにおける時間経験の可能性を改めて示していた。
音楽的構造を視覚表現のなかで再構成
「チュルリョーニス展 内なる星図」(国立西洋美術館)
もちろん、平面のなかに時間を見出そうとする試みは、現代のモーショングラフィックスだけに見られるものではない。
リトアニアを代表する芸術家、ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875〜1911)は、象徴主義を基盤としながら、神話や宇宙、自然を主題とする幻想的な作品を数多く残した。元々彼は作曲家としても活動しており、音楽と絵画の関係への強い関心を抱いていたことが知られている。その関心は、「ソナタ」や「フーガ」といった音楽形式の名を持つ連作にも表れている。

1907年頃から、彼は音楽におけるソナタの形式を絵画へ応用した連作の制作に取り組みはじめる。「ソナタ」連作では、「アレグロ」「アンダンテ」「スケルツォ」「フィナーレ」といった楽章名が与えられている。しかしそれらは音楽作品の内容を図解したものというよりも、各楽章がもつテンポや運動感覚を視覚的な構成へと置き換える試みとして理解することができる。反復されるモチーフや画面奥へと連なる空間構造は、鑑賞者の視線を一定のリズムへと導く。
「フーガ」連作においても同様に、樹木や山並み、塔といったモチーフが反復されながら変奏されているように見える。音楽におけるフーガが主題の反復と変奏によって成立する形式であることを踏まえるならば、これらの画面は視覚的なポリフォニーとして読むこともできるだろう。絵画平面のなかに実際の運動は存在しない。しかし反復と差異によって構成された秩序は、鑑賞者の知覚のなかに時間的な展開を生み出しているように感じられる
こうした作品群を前にすると、絵画における時間とは何かという問いそのものが揺らぎはじめる。レッシング以来、西洋の芸術理論はしばしば絵画を空間芸術、音楽を時間芸術として区別してきた。しかしチュルリョーニスの実践は、その境界を横断する試みとして捉えることができる。彼が目指したのは単純な意味で音楽を絵画へ翻訳することではなく、反復や変奏、リズムといった音楽的構造を視覚表現のなかで再構成することだったと考えられる。展示室に並ぶ作品は、象徴主義特有の神秘的なイメージや幻想的な風景として映る。しかし立ち止まり、画面の細部へと視線を巡らせていくと、そこには複数の時間が折り重なっているようにも見えてくる。樹木は反復されながら成長し、山々は波のように連なり、星は静止しながらも運動の気配を感じさせる。

印象的なのは、チュルリョーニスが自然を風景描写としてではなく、より大きな宇宙的秩序との関係のなかで捉えようとしていた点である。海や森、山といったモチーフは、現実の景観を再現するためというよりも、世界を貫くリズムや構造を象徴的に表現するものとして読むことができる。そのため彼の作品に描かれる空間は、現実と夢想のあいだを漂いながら、神話的であると同時にどこか抽象的な性格を帯びている。
井口とチュルリョーニスの方法はもちろん異なる。井口は運動や光、空間を用いてグラフィックを時間的経験へと開いていく。いっぽうチュルリョーニスは、静止した画面の内部に時間的構造を埋め込もうとした。しかし両者に共通しているのは、時間を表象の対象としてではなく、知覚を組織する原理として扱っている点である。レッシング以来の「空間芸術/時間芸術」という区分は、芸術の固有性を考えるうえで大きな役割を果たしてきた。またグリーンバーグは平面性をモダニズム絵画の重要な条件として理論化した。しかし2つの展覧会を続けて見ると、平面は必ずしも時間の対立項ではないことが見えてくる。むしろ平面は、視線の移動や反復、リズムを通じて固有の時間経験を生み出す場として機能しうる。
※本稿執筆にあたり以下を参考にした。
ギンザ・グラフィック・ギャラリー第414回企画展『井口皓太 モーショングラフィックス』展覧会資料
国立西洋美術館『チュルリョーニス展 内なる星図』展覧会カタログ、2026年
レッシング『ラオコオン 絵画と文学の限界について』斎藤栄治訳、1970年、岩波文庫
クレメント・グリーンバーグ『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄訳、2005年、勁草書房


























