偶然にも本レビューには、様々な動物たちが現れる。鵜飼の鵜と鮎、屋根裏を走る鼠、イチジクを求める動物たち。しかし、それらはたんなるモチーフではない。3つの展示はいずれも、「物事を成り立たせる働き」を動物という存在を通して示していた。
ひとまず丸呑みして考える
「アーティスト・イン・ミュージアム AiM Vol.19 さとうくみ子」(岐阜県美術館)
岐阜県美術館では、かつて実技講座やワークショップの実習棟として利用されていた空間を活用し、アーティストが一定期間滞在制作を行う「アーティスト・イン・ミュージアム」を2016年から継続している。美術館という完成された作品が扱われる場所において、作品制作のプロセスを前景化する試みとして行われてきた(*1)。19回目となる今回、岐阜県可児市出身のアーティスト・さとうくみ子(1990〜)が約2ヶ月にわたる公開制作を行った。

さとうは、日常からの空想に着想を得たドローイングから、段ボールや綿棒など身近な素材を用いた立体作品、さらには、それらを通じたパフォーマンスを展開してきた。今回の公開制作のテーマは、岐阜の伝統漁として知られる「鵜飼」だ。さとう自身が滞在期間中に館内外を歩き回り、そのなかで見つけた出来事や事物をいったん「呑み込み」、作品を生み出す過程がなぞらえられている。
会期中には、さとうの作品に来場者が手を加え、完成させる試みが行われた。この背景には「鵜鮎(うあゆ)」の存在がある。鵜飼で捕えられたことで鮎にはくちばし型の傷がつき、それがかえって鮮度の良い高品質な鮎の証となる。作家が滞在期間中の出来事を呑み込み作品を形にするように、来場者もさとうの作品を受け取り、自らの解釈という「傷」を作品に残す。そこには、物事をひとまず丸呑みして考えるという態度が共有されている。

この一連の過程は《ノドタメルーム》(2026)で行われる。いわば、鮎を捉え、吐き出すための鵜の喉の中である。筆者も実際に中に入り、その過程を擬似体験した(*2)。薄暗い空間の中央には作品を置くための台、両脇にはボンドと接着用の綿棒が置かれており、しばらくすると、屈んだ姿勢の頭上から立体物がゆっくりと降りてくる(外でさとうが紐を手繰り寄せ、手動で降ろしている)。どこか儀式めいて見えるその光景とは対照的に、実際内部で行うのは、じつに地道な作業だ。作品素材である段ボール片にせっせとボンドを塗り、上から降りてきた立体物に接着させる。この仰々しさと素朴さとのギャップが、思わず笑みを誘う。

「傷」を得た作品は、鵜籠(うかご)を模した台の上に展示される。そこには、さとう自身とは少し異なる手つきや痕跡が残され、作品は少しずつ姿を変えてゆく。公開制作では、作家は「見られる人」、来場者は「見る人」として向き合うことが多い。しかしここでは、両者を媒介する「喉」によって、来場者も手を加える側となる。さとうは《ノドタメルーム》を通して、制作とは他者の手つきや解釈をも呑み込みながら変容していく営みであるとして、公開制作のあり方を軽やかに捉え直してみせた。
*1──鳥羽都子「地方公立美術館における新しい社会的役割を開発する改革の試み―岐阜県美術館の事例を中心に―」『文化経済学』第17巻第1号、2020年(最終閲覧2026年6月25日)。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jace/17/1/17_26/_pdf/-char/ja
*2──筆者はさとうの作品には手を加えず、美術館敷地内で拾われた支持体としての石を用いて制作を体験した。
支えによって立ち現れるもの
丸山のどか「鼠と松」(Q SO-KO)
丸山のどか(1992〜)の個展「鼠と松」は、見えない気配や支えに意識を向けさせる展示であった。丸山はこれまで、実際の風景から着想し、ベニヤ板や角材などの規格材を用いた立体作品を制作してきた。その抽象的な形態は、現実の場に置かれることで風景の異化を促す。本展の会場となったQ SO-KOは、美術施工チームであるミラクルファクトリーと、東南アジアとのアートや文化交流事業を展開するSEASUNが運営する空間であり、本企画はミラクルファクトリーとその仲間たちが主催する「ミラクルコンペ」の受賞者展として開催された。

展示は、松の木と小部屋から構成される。まず小部屋内の壁面には、住居兼スタジオへの転居後の体験が記されている。天井裏を走る鼠の物音による睡眠不足、入眠のために流していたビート音、庭の松を剪定した結果、木を枯らしてしまった経験。それらは、木材でつくられたプロジェクターを介して投影するかのように掲示されていた。
「寝ているときに、天井裏と壁の中を縦横無尽に音が駆け巡り、だんだんと立体的になっていく感覚がある(サウンドインスタレーションだなと思う。)」(会場内のテキストより)

テキストに呼応するように、ベッド脇にあるスマートフォンを模した立体の付近から断続的に低音が流れ、鼠の足音を思わせる物音が部屋の上部の様々な方向から突発的に響く。当然ながら会場に鼠の姿はない。しかし、その不在はむしろ音によって強く知覚される。気配だけがその場を満たし、見る者に存在を確信させるのだ。さらに小部屋の仮設壁と展示空間の既存壁のあいだには、細い隙間が設けられている。見る者は鼠のように壁の裏側へと入り込み、普段想像の及ばない住空間の背後を移動することになる。
いっぽう、会場に立つ松の木もまた、その存在を支える構造を浮かび上がらせる。松の枝先から視線を上げると、天井から吊られて固定されていないことに気づく。松は三角形状に組まれた角材によって支えられ、緊張感を伴いながら立っている。その姿は、松そのものよりも、「立っている」ことを可能にする支えへと目を向けさせた。
今回の展示では、音やテキストの導入にあたり、施工者や協働者との対話が重要な役割を果たしたという(*3)。そうした背景も含め、丸山は、対象そのものではなく、それを支えている構造や気配を抽出し、空間のなかへと立ち上げてみせた。
*3──映像制作会社「青空」公式インスタグラムより「丸山のどか『鼠と松』インタビュー映像」(最終閲覧2026年6月25日)。https://www.instagram.com/reel/DZHhkl6uDhB/
糧が動かす生命
木村充伯「エナジー」(KENJI TAKI GALLERY)
彫刻家・木村充伯(1983〜)の個展「エナジー」は、生命の根源的な活動についての再考を促すものであった。これまで木村は、体毛、呼吸、熱などをテーマに、動物や人をモチーフとした木彫や油絵具による立体作品を手がけてきた。今回はその関心が、動物にとって不可欠な「食糧」へと向けられている。


本展は、「フルータリアンエナジー」(2025-26)と題された一連の作品で構成され、「イチジク」が繰り返し登場する。熱帯では20メートルを超える高木となるイチジクは、多くの動物にとって重要な食糧であり、多様な生き物を引き寄せる存在でもある。木村は、その樹上に広がる生態系を、1センチにも満たない油絵具による微細な造形でつくり出した。低い枝には爬虫類やリスが、高い枝にはサルやオランウータンが配され、枝の高さごとに生息域の違いが示される。こうして俯瞰的なスケールで、ひとつの果実を中心に生命同士が結びつく生態系が見る者の前に立ち上がる。

《フルータリアンエナジー(イチジクコイン)》(2026)は、縁に赤い色彩が施された輪切りの木片がコインに見立てられ、一面には動物の顔が、もう一面には独自のコインの意匠と動物名が刻まれる。動物にとって生きるために欠かせない食糧は、必然的に動物を引き寄せる。いっぽうで、人間社会における貨幣もまた、生きるための活動を支える媒介として機能する。イチジクと貨幣という異なる価値体系を重ね合わせることで、生きるために何かを求め、その糧を得て再び動き出すという、両者に共通した循環の構造が見えてくる。
なかでも印象的なのは、イチジクをかたどった木彫の内部に動物が佇む2つの作品だ。タイトルには「家」という語が含まれるが、縦格子状に切り抜かれた空洞はどこか檻を思わせ、食糧がその動物の移動や生息地を規定し、そしてその循環をも方向づけていることに気づかされる。本展を通じて木村が示すのは、食糧を起点に生き物が集まり、移動し、棲み、再び別の生命へとつながっていく循環である。
展覧会タイトルの「エナジー」とは、生き物の内側に宿る力ではなく、生命同士を結びつけ、その営みを絶えず動かし続ける関係性全体を指しているのだろう。そうした循環は、社会制度や価値体系が複雑化した人間の生活において、あまりにも自明であるがゆえに見えにくい。だからこそ木村は、イチジクと動物の関係を媒介に、生命の絶え間ない運動そのものを彫刻として表現してみせた。
鵜、鼠、そして樹上に棲む動物たち。3つの展示が示していたのは、普段は意識されることのない「物事を成り立たせる働き」と言えるだろう。作品は解釈によってかたちを変え、存在は支えによって立ち現れ、生命は糧を得ることで動き続ける。動物たちはそうした働きに目を向けさせる媒介として、それぞれの展示に現れていた。





























