戦後美術、2つの前衛の軌跡から見えてくること
裂け目に走る「筋」がやがて「道」となるように
「没後10年 白髪富士子 それは豊かに楽しいもの/ひそかにさびしいもの」(尼崎市総合文化センター白髪一雄記念室)
白髪富士子の活動期は1955年から61年の6年間と限られ、作品も多く残っていない。白髪一雄記念室で開催された本展は、具体美術協会(具体)の会員として活動したその短い時間に焦点を当て、富士子を作家としての軌跡と生活者としての輪郭の両面から照らし出す展示構成となっていた。

最初に展示される《無題》は、1955年に東京の小原流会館で開催された第1回具体美術展出品作と同様の手法で制作された作品である。白い和紙を破り、貼り重ねるというシンプルな行為は、紙に折れや溝を生み出し画面へ刻みこんでいる。皺のように起伏する画面が光を受けて生み出す影の濃淡は、手の動きの痕跡を地形のように浮かび上がらせていた。
本作が制作された1955年は、松の木が複雑に入り組んだ広大な芦屋公園で「真夏の太陽にいどむ野外モダンアート実験展」が開催された年でもある(*1)。富士子は10メートルの板をのこぎりで縦に裁断して裂け目のような筋をつくり、白く塗ってかすがいで留めた《白い板》を出品した。太陽光のもと、地面には板と板の隙間からすり抜けた一筋の強い光が射していただろう。その光景は、のちに富士子が機関誌『具体』に記した「何もない天空に一筋、裂け目をつくりたい」という言葉に通じる原体験だったと推測する。さらに彼女は「みる人が畏怖と放心に落ちこむもの。その、天空を走る裂目は私自身の観念であった」と述べる(*2)。この言葉は、実直に観念へと向かう彼女の衝動を示すものだ。
その「裂け目」としての観念は、1957年頃の2点の《無題》では「線」として展開する。藍色の背景に白い絵具を流すことで生じた直線がいくつも走るこの2点は、上下につながるように一致する筋がありながら、完全には合致しない線も存在する。そのわずかな「ずれ」が、絵画が単なる視覚的に捉えるものから逸脱し、観念の揺らぎそのものを孕んでいることを物語っているように感じられた。この表現の移行は、富士子の心に思い浮かぶ像がより繊細に、そして深度を増していく過程として読むことができるであろう。

1960年頃の《無題》は、そこからさらに大きな転調を見せていた。和紙を重ね、ガラス片や複数の色を沈ませるように塗り込んだ画面は、渦のように複雑で、触覚的な厚みをもつ作品へと変貌している。ここでは、もはや一筋の線に還元できない「世界そのもの」の生成が見て取れる。
翌61年、富士子は制作をやめ、夫であり「具体」の主要メンバーであった白髪一雄の画業を支える道を選んだ。その決断を「自分の生をどう歩むか」という、富士子が選んだ主体的な行為として捉えたい。会場に展示されていた家族写真や幼少期の絵などの資料が伝えてくる丁寧に過ごした日常や、一雄との支え合っていた関係は、その選択を悲劇的に写してはおらず、その決断の穏やかな必然を裏打ちしていた。
本展は、作品と資料を往復させながら、白髪富士子という人物像を象っていた。和紙の皺、垂直の線、物質の堆積は、6年間という短い時間のなかで生まれた、富士子の確固たる表現である。作品に向き合うことを選び、いずれ制作を離れることも選んだ。裂け目に走る「筋」がやがて「道」となるように、制作と離脱の両方に、富士子の揺るぎない意志が一貫して通っていたのだと思う。
会場である白髪一雄記念室は、今春から約5年間の休室に入った(*3)。会場となったこの場所が、富士子の個展でいったん幕を下ろすことは、制作を離れるという彼女の選択と呼応しているように感じた。閉じることは終止ではない。次の時間へ向けて場を更新するための節目でもある。
*1──1955年8月に芦屋川沿いの芦屋公園で開催された「真夏の太陽にいどむモダンアート野外実験展」は、芦屋市美術協会と芦屋市が主催した展覧会として開催された。出品者の約半数が「具体」会員や関係者であり、事実上の「具体展」とみなされる。
*2──白髪富士子「野外展前後の私」『具体』第3号、1955年10月20日、23頁
*3──尼崎市総合文化センターは耐震化工事のため、令和8(2026)年4月1日から長期休館した。その間、白髪一雄記念室も休館。今後の予定は未定となっている(ただし、休館中も問合せ等には対応するという)。https://www.archaic.or.jp(2026年6月17日最終アクセス)
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