ダムタイプ《S/N》とはなんだったのか。ブブ・ド・ラ・マドレーヌと山中透が語る古橋悌二が伝えたかったことと現代へのメッセージ【2/3ページ】

古橋悌二のHIV感染と、作品に与えた決定的な転換

 トークの冒頭、ブブ・ド・ラ・マドレーヌは、上映直前に起きたトラブルについて明かした。スクリーンの下部が映らなくなるという予期せぬ事態に対し、京都にいるスタッフが急遽リモートでレンダリングとアップロードを実施し、数時間前に「画角合わせ」を完了させたという。「ダムタイプはデジタルに見えたアナログだと言われてきたけれど、まさかこのデジタル時代に、生々しい『画角合わせ』でお待ちいただくことになるとは」とブブが語ると、会場は温かい笑いに包まれた。しかし、この「ハプニング」すらも、ダムタイプというグループの本質を象徴しているように感じられた。ダムタイプは最新のテクノロジーを用いながらも、生きている身体と現場の状況が生む即興性のなかで生み出されてきたからだ。

《S/N》(1994)の記録映像(2001)より、エイズ発症をカミングアウトする古橋悌二

 象徴的なのが、《S/N》を語るうえで避けて通れない、1995年にエイズを発症し他界した中心メンバー・古橋悌二の存在である。ブブの説明によると、もともと《S/N》というテーマや舞台構成の構想は、古橋の発病前からスタートしていたという。しかし、創作の途上であった1992年10月、古橋がHIVに感染しており、エイズを発症したことがメンバーに明かされる。古橋は、仲間たちに宛ててHIV感染の事実をこれまで伝えることが出来なかった理由を述べ、「自分にはまだやりたいことがたくさんある。これからも一緒にやってくれますか」という切実な手紙を送った。

 古橋自身が書籍『メモランダム 古橋悌二』(編集:ダムタイプ、リトルモア、2000)などにも遺しているように、もし自分が発症した場合はどのように作品を演出するかというプランは、古橋自身がもっとも深く考えていた。自身の死後もツアーが継続できるよう、自分がいない「悌二なしバージョン」の演出案を亡くなる直前にメンバーに伝えていたという。

 1995年10月に古橋が亡くなった後も、グループは東京、京都、香港、ウェリントン(ニュージーランド)、セビリア(スペイン)、クレテイユ(フランス)でツアーを続行した。舞台上では、古橋が座るはずだった椅子は空のままスポットライトが当てられ、生前の彼を捉えたリアルタイム風のパフォーマンスと、舞台裏にいるブブ、そしてダンサーのピーター・ゴライトリーのライブパフォーマンスが掛け合わされるという不在の演出が敢行された。「悌二が生きているときも私たちは必死だった。彼が病院に入院していていないのか、それともこの世にいないのか。私たちが舞台に向き合う切実さにおいて、じつはそこに大きな違いはなかった」とブブは当時を振り返った。

《S/N》(1994)の記録映像(2001)より、メイクをした古橋悌二と電話をかけるブブ・ド・ラ・マドレーヌ

 古橋悌二がドラァグ・クイーン「ミス・グロリアス」として見せたリップシンクのパフォーマンスは、強烈な批評性を兼ね備えていた。ジェニー・リヴィングストン監督の映画『パリ、夜は眠らない』(1990)に描かれているようなニューヨークのクィア・カルチャーを体現し、女優、エリザベス・テイラーがHIV・エイズ啓発のスピーチをした際の声を完璧にリップシンクしてみせる古橋の姿は、エンターテインメントを超えた「抵抗」の表現そのものだったといえる。

 トークではこのようなダムタイプの表現が生まれた当時の文化的な背景についても語られた。山中と古橋はもともと10代の頃から一緒にバンド活動を行っており、音へのこだわりやリズムに対する鋭い感性が、のちのダムタイプの映像と音響の先行的な融合へとつながっていったという。

 また、1980年代後半、ニューヨークのクラブカルチャーに触れた古橋と山中は、そこでドラァグクイーンやハウス・ミュージックの強烈な洗礼を受ける。大阪の堂山町にあったゲイ・ディスコ「クリストファー」や、ミナミのゲイバーに通い詰めていた2人は、そのストリートの熱量を日本のアートシーンに持ち込むべく、ワンナイトクラブイベント「Diamonds Are Forever」を始動させた。

編集部

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