
失われた映画に「声」を与える。 沢山遼が見た、平川祐樹「映画になるまで君よ高らかに歌へ」展
場所やものに流れる固有の時間を、映像や写真、またそれらを組み合わせたインスタレーションによって表現する平川祐樹。平川による9分間の映像作品《映画になるまで君よ高らかに歌へ》は、関東大震災や空襲によってフィルムが消失した日本映画のタイトルから平川が着想を得て制作した映像作品だ。この作品と同名の展覧会を、美術批評家の沢山遼がレビューする。

場所やものに流れる固有の時間を、映像や写真、またそれらを組み合わせたインスタレーションによって表現する平川祐樹。平川による9分間の映像作品《映画になるまで君よ高らかに歌へ》は、関東大震災や空襲によってフィルムが消失した日本映画のタイトルから平川が着想を得て制作した映像作品だ。この作品と同名の展覧会を、美術批評家の沢山遼がレビューする。

2001年からユニットでの活動を行う山下麻衣+小林直人。本展では、自然を人の対義語としてとらえるのではなく、人も宇宙も自然の一部として解釈したという新作の映像作品4点を展示した。「自然観察」と題された本展を、キュレーターの服部浩之が論じる。

写真の可能性を決定的瞬間の外部に見出し、スナップ写真を独特の間合いで映像化する作品で評価される迫鉄平の個展「FLIM」が東京・新宿のSprout Curationで開催された。迫の新作が発表された本展について、映像論研究者の福尾匠が分析する。

イギリス・テートに所蔵される膨大なコレクションから選出された作品により構成される「ヌード」展。シドニー、ニュージーランド、韓国を巡回し横浜で開催中の本展を契機として、豊田市美術館学芸員の鈴木俊晴が美術館のコレクションと常設展のあり方を論じる。

「オプ・アート」の代表的な作家として知られるブリジット・ライリー。その日本では38年ぶりとなる美術館個展が、DIC川村記念美術館で開催されている。60年代の作品から近作までが揃う本展を、美術評論家で『マルセル・デュシャンとチェス』の筆者である中尾拓哉がレビューする。

広島の泉美術館、ヒロセコレクション、ギャラリー交差611にて、相次いで社会福祉施設の入居者らによる作品を紹介する、アール・ブリュットの展覧会が開催された。必ずしも表現の意図に基づかない作品群を、私たちはどう見るべきか。広島市現代美術館学芸員の松岡剛が論じる。

ものと、それを認識する人間という二元論的な関係性や、人間を中心とした世界観に揺らぎを与える小林耕平。ものと、ものの認識を巡る対話(映像)を組み合わせたインスタレーション展示は、従来の作品鑑賞という枠組みにも揺らぎを与えた。本展をアートにおける演劇性に着目する佐々木敦がレビューする。

第117回
福島市内の高校で美術教員を務めながら、2011年の福島第一原発の事故後の福島市の写真を取り続ける赤城修司の個展「Fukushima Traces, 2017」展が、東京・新宿のphotographers’ galleryで開催された。震災後の赤城の活動を追い続けてきた椹木野衣が、本展をレビューする。

太宰府天満宮が2006年より実施している「太宰府天満宮アートプログラム」。様々な分野の作家が太宰府にまつわる作品を発表する同プログラムの第10回を務めたのは、フランスの作家ピエール・ユイグ。プログラムの会期後も恒久展示されることとなった境内の「庭」について、大阪新美術館建設準備室学芸員の大下裕司が迫る。

第2次世界大戦前後の大きな価値転回に立ち会い、ルポルタージュ絵画、前衛芸術、宇宙の成り立ちをテーマとした絵画など、約70年にわたって多彩な作風を展開してきた池田龍雄。170作品を通してその活動を振り返る展覧会が練馬区立美術館で開催中(4月26日〜6月17日)だ。この回顧展を通して見えてくるものとは? 美術家の中ザワヒデキがレビューする。

明治元年(1868)から起算して満150年にあたる今年、岐阜県美術館では「明治150年」を記念し、明治期に活躍した山本芳翠の作品を中心とした所蔵品特別展が開催されている。展示そのものの歴史を紐解きながら、その特性について愛知県美術館学芸員の副田一穂がレビューする。

アテネのオナシス文化センターで毎年5月に開催されている、国際演劇祭「ファースト・フォード・フェスティバル(FFF)」。ここで発表された藤井光の最新作である演劇的インスタレーションについて、演劇とアートを横断して活動するアートプロデューサー・相馬千秋が考察する。

金沢市内のオルタナティブ・スペース「芸宿」が建物取壊しに伴い移転することとなった。それに際し催されたクロージングイベントで、カタルシスの岸辺が「動画の量り売り」を実践。このパフォーマンスについて、インディペンデント・キュレーターの長谷川新が迫る。

大きく開いた瞳孔や、感情の読み取れない表情、幼児的なポーズ、といった特長的な人物像で知られる日野之彦。抽象的な密室に人物を配したこれまでの作品に対し、個展「外へ」では物語を想起させる屋外を舞台にした新作を発表した。新たな表現に挑んだ、作家の新境地に迫る。

パープルーム主宰の梅津庸一がキュレーションを手がけた展覧会「共同体について」が、東京・天王洲のURANOで開催された。通常のグループ展とは異なるアプローチで、多様な背景を持つ作家による作品を展示した本展について、批評誌『アーギュメンツ』でも活動する若手批評家・仲山ひふみが論じる。

関東大震災から太平洋戦争直前の東京を歩き回り、その日暮らしの生活のなか、街の息遣いを描いた長谷川利行。その新出作品、近年の再発見作、代表作を含む約140点が集まる回顧展が府中市美術館で開催中だ。「放浪の天才画家」のイメージとともにある長谷川の作品を、美術批評家の沢山遼が分析する。

第116回
タカ・イシイギャラリー東京で開催されたスターリング・ルビーの個展「VERT」と、URANOで開催された渡辺豪の個展「ディスロケーション」を清水穣がレビュー。コラージュと、その母体となったコンストラクションのふたつの手法に焦点を当てて論じる。

厚塗りの絵具によって力強い人物の顔を描いてきた小村希史が、新境地となるシリーズ「Subtract(取り去る、差し引く)」を東京・神宮前のThe Massで発表した。東日本大震災を経て大きな変化を見せた画家の個展を、東京都現代美術館学芸員の藪前知子がレビューする。

時間と空間におけるドローイングの可能性を探求し続ける鈴木ヒラクと、絵画の構造を模索してきた清田泰寛。制作姿勢や個性が異なるふたりの作家の個展から、“ドローイング”の多様な可能性に迫る。

広島のアートギャラリーミヤウチにて、1960〜80年代に地元作家の重要な活動拠点であった「画廊 梟(ふくろう)」の関連資料・作品による展覧会が開催された。コレクションの紹介にとどまらず、オーナーであった志條みよ子の表現に対する姿勢を新たな観点から伝えた本展を、広島市現代美術館学芸員の松岡剛が論じる。