山下麻衣+小林直人「自然観察」展 観察という態度について 服部浩之 評
山下麻衣+小林直人は、彼ら自身の身体を用いたパフォーマテイヴな行為と、その記録を軸とした作品を多数制作している。特別な身体性を必要としない簡素な行為からなり、ときにそれは膨大な時て人が実践することはない少々馬鹿げていると思われるようなことを、淡々と生真面目に実践することで、その過程に生じる笑いやユーモアを大切にし、人間存在の根源的な意味や、人間と自然の関わりを改めて考えさせるものが多い。
本展は「自然観察」と題し、4点の映像作品をインスタレーションとして構成する。
山下と小林は、 これまでもアマゾン川とナイル川を自ら川下りするプロジェクト《Going Mainstream / メインストリームを行く》(2010)など、人間に対して大きな存在としての自然を彼ら自身の身体を通じて眺め、察することを試みてきた。また、通常は決して出合うことや接続を考えることのない対極に位置すると考えられる事象を、彼らの身体や行為を通じて結び付ける。アマゾン川とナイル川は同じ海へとつながってはいるが、人間の身体感覚としてそれを実感することは不可能であり、遠く離れた無関係なものと考えるのが普通だろう。そのようなものの出合いを試みるダイナミックな発想には、爽快感さえ感じる。
本展では、海と山という人が対比的に扱うことが多い2つの状況の出合いを試みた。山を登る人の視点からとらえた美しく臨場感のある山の風景を眺めると、鑑賞者は間もなくある違和感を覚える。視覚情報と聴覚情報に不思議なずれが生じているのだ。山を登る人のたてる音や鳥の鳴き声、木々のさえずりに加えて、通常聴こえるはずのない海の波の音が響いている。まことに奇妙な音の重なりだ。《海の声を山に聞かせる》(2017)というタイトルのとおり、作家が海で録音した音をスピーカーから流しながら山を登っているのだ。木々やキノコなどがアップで映し出されると、それらが海の音に聴き入っているようにさえ見えてくる。しかし、これは極めて人間側からとらえた見方、感じ方だろう。実際、山の風景は人の移動や視点に応じるかたちで映し出され、海の音と山の出合いは人間が媒介することで実現されている。ある意味人間中心主義的ともいえる状況を生み出すことで、改めて人間の存在や知覚について思考することを促す。
他方、作家たちと愛犬が石か木片のように折り重なって静かに佇む様子をとらえた映像《積み石》(2018)は、作家自身が言及するように「もの派」の態度を想起させるものがある。山下+小林のほとんどすべての作品に共通するのは、「見ること」、つまり観察を重要視すること、そして「つくること」を意図的に注意深く回避し創造する態度で、もの派の態度をある部分で引き継ぐと言ってよいだろう。さらに、普通の身体によるパフォーマンスの要素が重ねられることや、行為とその記録が重要な意味を成すことなども合わせて考えると、反芸術的なあり方への意識も伺うことができる。表現媒体に対する現代的感覚も強く、《積み石》は16:9のモニターを用いながら正方形の画角で映像を切り取っている。その意図は、カメラの視界で自然を切り取ったほかの作品と差別化を図ることだけではないだろう。正方形という形式は、無対象を唱えたマレーヴィチの「黒の正方形」や、近年のInstagramなどの画像まで、多様なイメージを連想させる。山下と小林がモニターを用いながらもあえて正方形という画角を選択した理由を明確に看取することはできなかったが、ある複雑さを生み出し、鑑賞者に注意深い観察を促すことには成功しているだろう。この作品をよく見ると、映像に登場する切り株が同じ配置でモニターの前に設置されており、映像内外で入れ子構造がつくられるなど、ものと人の関係を撹乱させつつ、それを思考させる。
ここで改めて、展覧会タイトル「自然観察」について考えてみたい。別室には、星空を撮影し、北極星が映る数ピクセルのみを拡大した《北極星》(2018)がある。たしかに星空という自然をとらえたものだが、その映像空間は抽象的な光のスペクトラムで満たされ、人工的に生み出された場という感覚が強い。本展で提示されたすべての作品がなんらかのかたちで「自然」を対象としているが、それに対する「観察」という態度は、じつは自然を知覚し思考する人間からの一方的なまなざしの表れでもある。それは、そもそも「art(アート)」という言葉がはらむ元来の意味である「自然の模倣」「人工」「技術」など、人間と創造の関係とそこに横たわる問題を、批評的に観察することを促すものと言えるだろう。