椹木野衣 月評第117回 7年が経つということ 赤城修司「Fukushima Traces, 2017」展
これまで月に一回、ひとつの展覧会を取り上げてきたこのレビューも、本誌の隔月刊化に伴い、今回から大幅に形式が変わった。形式が変わるということはたんに分量の問題ではなく、書き方そのものが変わるということなので、思案の末、暫定的だが時評的なスタイルを採ることにした。これは月評とも隔月評とも違う時間を意識するためで、かといって原則1年に6回は書く機会があるわけだから、四季が移るほどのことでもない。つまり季評ほど悠長でもない。いっそ執筆期間中に気になった展覧会をたんに二つ取り上げようかとも思ったが、それだと味気がなさすぎる。勝手なことを言うようだが、長期にわたって書き続けるというのは結構大変なことで、前号までの月評では初回から一度の休みもなく116回をこなしたが、どんな長距離走でもゴールまでの距離は決まっているのに、こういう形式にはそれもないから、せめて原理、のようなものは必要になる。当面、それがここでは時評的、ということになる。
さて、この文章を書いている2018年の3月は、あの東日本大震災から7年にあたる特別な3月11日を含んでいる。しかし、あれほどの出来事であったにもかかわらず、年を追うごとに当事者でもないかぎり記憶は薄れる一方で、毎年この時期になるとテレビと新聞とを問わず特別番組や記事が組まれはするけれど、それはどこか恒例の行事にも似て実感を伴わず、時期が過ぎれば前と同じ日常にあっというまにかき消されてしまう。しかし、それは人間の健全な忘却能力のあらわれでもあるのであって、あんな恐ろしい出来事が昼と夜とを問わず絶え間なく脳裏に浮かぶようでは、日々の生活など到底、ままならない。しかし私たちが棲むこの日本列島が、地下でプレートがひっきりなしに擦れ合っている場所である以上、本来であれば健全なはずの忘却の力こそが、明日にも迫っているかもしれない次なる災害を、いまも淡々と過酷にし続けている。それもまた容赦のない事実なのだ。
先に、連載を際限なく続けるのは自由なようでいて大変なことで、しかも一回ごとに違う対象を扱う以上、回を増すごとに手慣れたりすることなどありえず、継続のためにはどこかで原理、のようなものが必要になると書いたばかりだが、東日本大震災に引きつけて言うならば、原発事故の直後から大気中にばらまかれた大量の放射性物質が私たちの日常をどんなふうに変え、国や行政がそれに対しどのように向き合い、さらには私たちがその向き合い方をいかにして日常の一部として取り込み直し、なかば共犯者的に透明化したかについて、すべてをなかったことにすることをせず、その一端だけでも違和感として露出することを継続できるとしたら、それはもう主観などではなく、原理に頼るしかない。そのような無主物的(実際、放射性物質は法廷でそう呼ばれた)な原理、のようなものだけが、事の甚大さゆえに本来なら必要とされる隠蔽=透明化が十分にできないため、本当は過去に例がないほどおかしな風景を日々、晒し続けている現状を、時の堆積に逆立して明るみに出すことができるはずだ。
東日本大震災における放射性物質の拡散について言えば、赤城修司ほど、その景観の異変を一貫して写真に撮り続けてきた者もいないだろう。むろん、震災という非常事態は写真というメディア、もしくは写真家という職能にとって極めて相性が良かったから、直後から有名と無名とを問わず、数え切れない写真家たちが続々と被災地に入り、その悲劇的な風景をそれぞれの仕方で写真に収めた。その中には大きな成果として評価されたものもあるし、そうでなくても個々の記録としては十分に貴重なものにちがいないのだけれども、少し引いて見てみたとき、どれもどこかよく似ていて、言い換えれば、どれもこれもが写真的な現場性を帯びざるをえないから、そのことを受け入れてなお、事態をいまも撮り続けている者は、震災から7年も経過すればもうほとんどいない。
この点で赤城の写真が特殊なのは、放射線管理区域にあたるほどの汚染が広範囲にわたって広がり、しかし人口の密集や国土を支える幹線を抱えたせいか、住民の圏外への避難が公的になされず、前例がない広域除染によって、一見しては震災前と同じ日常を継続せざるをえなかった福島県の中通り、彼自身が居を構える福島市内の様子を、7年にわたって撮り続けていることにある。つまり、彼の写真からは最初から震災につきまとう悲劇性が欠けていた。だから、一過性の写真家が撮る被災地の様子にしばしば見られた被災物の山や無人の家、そして大規模に様変わりする大地や宅地といったある意味、ドラマティックな要素もほとんどない。赤城が最初に目をつけたのは、ある日を境に町の随所にあらわれ始めた「がんばろう福島」の標語であり、次に意識して撮るようになったのは、最初は明示されず、次第に公示されるようになった、町の至るところが除染される風景である。一見してはよくある工事現場と見分けがつかないが、その最大の特徴は、汚染された表土を剥いだものの当面は行き場がなく、放射性物質の漏えいを防いだうえで青(後に緑も)のビニールシートで表面を保護し、宅地や道路の隅のほうに出来るだけ目立たないように設置された「塚」─赤城の当初の言葉では「毒塚」─が、風景の一角に小さく顔を覗かせていることにある。
本展で示された風景も、基本的にはその延長線上にある。違いがあるとしたら、地上への塚の設置ではなく、規模が大きいため地中に埋設されていた学校の校庭の汚染土がようやく掘り起こされ、仮置き場(中間貯蔵施設ではなくその前の段階で地域に集合的に設置される)に移設されていくさまを記録した写真をスライドムービーで見せるモニタの設置と、これまで撮りためてきた風景を、写真ではなくドローイングで輪郭だけなぞったような絵のいささか唐突な出現だろうが、しかしこうしたわかりやすい要素の追加以上に大きく変化したものがあるとしたら、それこそが震災から7年を数える時の経過にほかならない。
しかし、この最大の変化をとらえるのが、じつはもっとも難しい。時が物理量でないがゆえ、経過すればするほど、その堆積が見えにくくなるからだ。そもそも時とは、変化が大きくなればなるほど、変化そのものが見えにくくなる性質を帯びている。別の言い方をすれば、赤城の写真は、東日本大震災から7年を経て、「毒塚」との共存がごくふつうの日常の風景の一コマとなり、赤城自身もそれをごく自然に受け入れるようになり、つまりは赤城自身がもはやこうした当たり前すぎる景色の記録を継続することの必然性に実感を持てないまま、それでもなお続けられている。そのような継続を可能にするものがあるとしたら、それこそが無主物的な原理、のようなもの──会期中に組まれ、それ自体が詩人、黒田喜夫の言葉から取られたトークのタイトルに倣って言えば「林の中にいるのだが樹が見えない」(=だから見えなくても撮り続けるしかない)──にちがいない。
このような原理的な継続は、それが主体的でない以上、当然、撮る者にある種の拒否反応を起こさせる。だが、拒否反応が起きてなお、主体の意向など無視しても継続させてしまうのが原理なのだとしたら、本展で初めて登場した非写真的なドローイングは、そのことへの(もとは画家だった)赤城自身の身体的なアレルギー反応のように見えなくもない。そして、それが7年経ったということなのだ。
(『美術手帖』2018年6月号より)