ピエール・ユイグ「ソトタマシイ」 全てのソトの場 大下裕司 評
太宰府天満宮アートプロジェクトの第10回として展開された、ピエール・ユイグの「ソトタマシイ(英題:Exomind)」展は、新作の「庭」を境内に恒久設置するという、2012年にキャロライン・クリストフ=バカルギエフが総合ディレクターを務めたドクメンタ13にて発表された《未耕作地》(英題:Untitled)の流れを引く作品である。同作は、そのバリエーションが16年の岡山芸術交流でも展示されている。近年ユイグが「人工物と自然の境界の揺らぎ」をコンセプトに展開を続けている、単純にインスタレーション作品とも言い切れない、スケールの大きな取り組みである。
学問の神として広く知られる、菅原道真公を祭神として祀る太宰府天満宮の境内地には、道真公以外にも様々な神が祀られている。本殿を越えてそのいちばん奥にある、天開稲荷神社を目指す参道の途中に、唐突に庭への階段が出現する。庭には頭部を蜂の巣に覆われた戸張孤雁(とばりこがん)の裸婦像が佇み、橙の木、太宰府天満宮を象徴する梅の木、クロード・モネが描いた池から枝分けされた睡蓮の浮かぶ池がある。池にはどうやらウーパールーパーもいるらしい(私は見つけられなかった)。それぞれには願掛けとも言える仕組みとして、橙を読み替えて「代々」と呼ぶことや、御神木である「飛梅」を接ぎ木すること、幼体成熟するウーパールーパーの飼育などを行っている。テーマである「永遠の庭」を背景に、優れた詩や和歌を多く残した道真公を思わせる「遊び」が散りばめられている。また「庭」の段々とした地形は土地元々の地形だが、制作にあたり蔓延っていた雑草などを剥ぎ取り、空間として作り込んでいったと聞く。公開時の11月下旬は九州といえども寒く、木々の葉は落ちて、ミツバチたちもあまり活動的ではなかったそうだが、5月初旬の春というよりも初夏を思わせる晴れた日におとずれると、「庭」は青々とした草木に庭は囲われ、裸婦像に安易に近づくことをためらうほどに精力的なミツバチたちを見ることができた。橙の実は落ちて、半分腐り始めていた。
この「庭」を制作するにあたり、ユイグは境内を「神社の庭」として歩き、境内地に配置された神々の名称などを示した境内図も鑑賞したという。宝物殿にはそれらに並んで、ユイグによる本作のプランドローイングなどが数点展示された。地形図、春になって生い茂る木々のイメージ、そしてこの庭が持つ、植物・昆虫・微生物をはじめとする環境のライフサイクルが描かれている。ドローイングには境内の猫たちの姿があり、猫だけは、そのライフサイクルを構成する各要素と線で結ばれずに描かれている。プラン・ドローイングの中では複数の猫が描かれているが、《ソトタマシイ》のキャプションには三毛猫と記されており、遺伝の特殊性によって選ばれた「三毛猫」が1匹いるということになっている。
猫は「庭」には現れなかったが、聞けば気まぐれに出てくることもあるそうだ。また、出てこないだけで三毛猫以外にも猫は境内にたくさん暮らしているという。ユイグの新作の「庭」を見にきた私の経験のなかで直接猫は線を結ばなかったが、境内にたくさん猫がいるという事実は、物語には登場しない存在だけが持つ、別の時間を想像させる。私たちはこの「庭」で、あるいは会社のオフィスの窓から空を眺めて、どこかで猫たちが微睡み、あるいはじゃれ合っていることを、想像することができる。
会期終了をもって展覧会には終わりがくる。その限定性は私たちを焦らせて、訪れる一回に価値を見出すように働きかけている。見逃してはならないと、私たちの得る体験はそのように限定のなかで尊く、また個々人にとっては貴重な思い出として、その手元に残るだろう。しかしながら「庭」は、会期後も木の葉やミツバチの働きを含むかたちで、そこに在る。
静かな庭から降りて、日本語に限らない様々な言葉が飛び交う境内の喧騒に身を戻すころ、ふと目の前に樹齢1500年以上と記された樟が現れる。千余年と続くこの天満宮で、おそろしく長い時間を生きた木は、あと何度春を迎えるのだろう。「庭」のテーマは「永遠」である。我々もまた、幾度と季節が巡ることを、迎える前から知っている。しかし私たちは数えれば、「私」という個人にとっては多くて100回弱の春しかやってこないこともまた、知っている。あるいは我々を彫刻から遠ざけていたミツバチの寿命は1ヶ月から150日程度である。この「庭」は、私たちの持つライフサイクルのその外側に、想像する私たちのものとは別の、猫の時間があることをそっと教えてくれている。