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2つの世界の終わりなき闘争。小鷹研理が見た、小林椋「ローのためのパス」

小林椋(むく)は、サウンドアートを出発点に、空間に点在するカラフルな木製のオブジェ、液晶ディスプレイ、機構などからなるインスタレーション作品を継続して発表してきた。動くオブジェと映像を組み合わせた「ローのためのパス」展、そして同タイトルの作品を、「からだの錯覚」を研究する小鷹研理が読み解く。

文=小鷹研理

「ローのためのパス」展示風景より

小林椋「ローのためのパス」展 つながってしまったものたちの風景 小鷹研理 評

 小林椋の展示空間に放り込まれている間の落ち着かない感じは、そのまま彼のひねり出す一連の展示のタイトルについて、その意味するところを考えあぐねているときの感覚と似ている。本展「ローのためのパス」にせよ、昨年NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]で展示された「盛るとのるソー」にせよ、それらの表現のなかで試みられている語と語の接続は、タイトル全体の解釈の複雑性を縮減させるどころか、むしろ個々の語句から単独では成立していたはずの意味をも剥奪し、それを読み解こうとする者を「言葉の荒野」へと放り込むかのようである。「ロー」と「パス」は、前置詞「for(のための)」によってたしかにつながっている。しかし、それは「ロー」から「パス」に対して(あるいはその逆にしても)何かしら積極的な働きかけがあってつながったというのではなく、端的に、何かの拍子に「ロー」と「パス」がつながってしまったという身も蓋もない事実が先にあるかのように。

 例えば、ある共感覚者にとって、数字の「3」は視覚的な「青」と抗いがたく結びつくが、その結びつきは恣意的なものでしかない。数字と色が結びつく解剖学的な根拠(領野の近接性)を指摘することは可能であるにせよ、「3」がまさにほかの色ではなく「青」と結びつかなければならなかったその根拠を説明できるような、いかなる深遠な理論もありえない。そもそも、こうした結合のバリエーションは共感覚者の数だけ存在するのであり、個々の結合のユニークネスは、端的に言って「そうなってしまった」の産物なのである。

 小林椋の空間に漂う不穏な空気の起源は、ひとつには、この種の「端的につながっている」としか言いようのないような「剥き出しの接続性」にこそ求められるように思う(その意味で、展示空間において点在するカメラとディスプレイを電気的に接続しているケーブル類が床と壁を這うさまは、まぎれもなく重要な展示要素としてカウントされてしかるべきである)。実際、今作の一部を含め小林椋の多くの作品では、ディスプレイそのものの動きとそのディスプレイに映し出される光景の中の動きが、互いに無関係に、したがって印象としては極めて無防備に交錯する。それはまるで、自らの背後に意図せずして貼られてしまった映像に、ディスプレイ自身がまったく気づいていないかのようである。その種の空間軸の恒久的な捻れは、「映し出されるもの」から「映し出すもの」を分離し、ディスプレイが物体であるという生々しい現実を浮上させることになる。ひとまずは。

展示風景より。黄色の〈くねくね〉が上下にスライドする光景

 他方で、小林椋の空間を、ただ無関心と無関心が捻れるだけの荒野であるところから救い出すものは、まぎれもなく、あの〈ギザギザ〉や〈くねくね〉に象られた木製オブジェの存在である。モニタの中に映し出された彼らの像からは、素材感をうかがわせるものが跡形もなく絞り取られている。そして、映像平面にのっぺりと張り付きながら単調な動きを繰り返しているさまは、ディスプレイの中にあって周囲からの好奇の目に晒されることを始めから織り込み済みであったかのような、じつに見事な変態ぶりである。

 例えば、本展示で使われている3体のモニタのうちの1体には、(離れた空間に位置する)別のモニタの黒い背面を背景として、黄色の〈くねくね〉が左右にスライドする光景が、90度の回転を経て映し出されている。このとき、映像の中で(奥行きをほとんど失った)「黄色」と「黒」の図と地の関係は、時折「ルビンの壺」のように反転し、物理空間のどこを探しても対応物の存在しない黒の〈くねくね〉が突如として前景化する(と同時に、かつて黄色の〈くねくね〉であったものは、映像空間の壁紙へと後退する)。この図と地の間欠的な交代において、黒あるいは黄色の〈くねくね〉 は、ディスプレイ内空間に固有の原理に従って自律的に生成と消滅を繰り返す幻影の地位へと昇格する。この幻影とは、はじめからディスプレイの映像空間をこそ住処にしていたかのような何者かのことであり、翻って、物理空間に設えられた木製のオブジェこそが、そうした幻影の(平面から立体への、抽象から具象への)展開物であるかのような奇妙な感覚に囚われるのである(*)。

展示風景より。斜めに鎮座したディスプレイ

 最後に、小林椋の展示空間において「ディスプレイが動く」ことの意味を、再度(近作の傾向からすると明らかに異色な)動かない1体のディスプレイの存在を手がかりとして考えてみたい。この、斜めに鎮座したディスプレイの映像には、(対面した位置で左右にスライドする)カメラによって捕捉された、動くカメラとの相対的な効果として水平方向にスライドさせられることになるディスプレイ自身の像が、上下左右に反転したかたちで入れ子に映し出されている。そして、この入れ子となったディスプレイの像の上に立って周辺を眺めるような仮想視点を確保してみるならば、そのような世界では、自らを宿している親のディスプレイこそが、鎮座しながらにして、その重たい身体をじりじりと水平方向に揺らせていたことに気づくのである。

 ここで浮上した「動き」は、一転して、映像的水準の動きと物理的水準の動きとの区別を無効化するものであり、結果として、ディスプレイの物質的側面に対する印象を損なうものとして作用しているようにみえる。この巧妙な仕掛けは、ディスプレイを物理的に動かすことが映像世界の特権性を剥ぎ取るうえでの特効薬にみえて、油断するといつでも映像世界の主観的効果に絡め取られてしまうことへの、ひとつの警告であるようにも感じる。そして、この種の無関心を装った物理世界と映像世界の終わりなき闘争こそが、小林椋の展示空間に漂う緊張の正体であるように思うのである。

脚注
*——じつは、この種の反転作用は、長時間視覚を閉ざされた状況であれば、誰にでも普遍的に起こりうるものである。オリバー・サックス『見てしまう人びと』(早川書房、2018年)によれば、視覚を遮断して2日を経過した頃から不随意的に生み出される幻覚は、多くの場合「光の点々、線、または単純な幾何学模様」をしており、「最初、平らなスクリーンに映し出されているように見え」、「外界に存在するもので、勝手に進行し、個人や状況とは関連も関係もない」のだという。また、弱視によって引き起こされる同種の幻覚(シャルル・ボネ症候群)においても、その幻覚対象は本人の意思とは無関係に「上ったり下りたりばかり」であったり、「現実に見えているものに重ね合わせられて」いることもある。このように並べ立ててみるならば、小林椋の展示空間は、感覚遮断の状況において、視覚野の関連領域が過活動することによって組み立てられていく幻覚の風景と不思議なほどに合致しているようにみえる。無論、この幻覚作用において顕著な「淡々と映画のように進行している」というほかない自動性の特徴(それは、統合失調症における、自我を巻き込んでいく妄想からは明確に区別される)も、各領野間の「剥き出しの接続性」のなせる業である。

 

編集部

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