日野之彦「外へ」展 カタレプシー的造形の彼岸に 塚田優 評
肥大化した目や各部位の誇張、不条理なポーズ、そしてブリーフパンツ。日野之彦はそのキャリアのなかで花や毛髪の描写、あるいは塑像といった表現の幅を見せつつも、一貫して人体表現の可能性を追求してきた作家である。モデリングに対する確かなテクニックをベースに再構築されていく非現実的かつ匿名的な身体は、正常と異常の境界線上を絶えず揺れ動きながら、観者に強烈なインパクトを残してきた。しかし今回の個展「外へ」において明らかになったのは、日野の実践はすでにこのようなセンセーションとは一線を画す領域へと移行していたことだった。
彼の描く人体は局部を隠すのみの姿で描かれることが多く、半ば奇形的なそれらは、ケネス・クラークが述べるところの(理想化も伴うことが多い)芸術表現としての「裸体」とは区別される、現代的なアプローチとして評価し得るものだ。ここでその特徴として取り上げたいのは、《オレ》(2006)などの作品で確認できる瞳孔の拡大である。こうした見開かれた目、あるいは奇妙な身振りの人物たちは、神経症、つまりヒステリーの症状を記録した写真との類似性を連想させるだろう。
ジョルジュ・ディディ=ユベルマンは、神経症患者が多く入院していたサルペトリエール施療院やその周辺の言説を調査したうえで、19世紀末の当時において、罹患の判断基準として「瞳孔の異常な拡大」が信頼されていたことを自著に記している。日野の描く人体はまるで神経症患者が発作を起こした直後の静止、つまりカタレプシーにも似た硬直性を保持している。その身振りはこわばり、瞳は焦点を結ばず、精神や悟性は不透明化することによって、身体そのものとして定位される。また、彼がこうした操作を男性に対して行っていることは、かつて女性特有の症状として蔑視された神経症に対するクィアな姿勢として深読みすることもできるのかもしれない。
しかし今回の個展において作家は、人物を無味無臭な室内から屋外へと解き放った。手や足、目などのわかりやすいデフォルメを施した初期作に比べると、自然な人体に近づいてきたことも手伝って、風景との違和を全面に押し出す結果にはなっていない。もちろん先に言及したような近似値としての人体を描くことは、短縮法で描かれた《高い所》(2018)でも一貫している。アンドレア・マンテーニャ《死せるキリスト》(1475-78頃)を思わせるその構図は、横たわるべきベッドを極端な仰角をとることによって空へと置き換えることで、身体の寄る辺なさを室内を背景としていた過去作よりもストレートに表現している。
こうした宙吊りの人間像は《バラの道》(2018)においても同様だ。青年とも少年ともつかぬ人物の女性的な臀部はその年齢や性別を曖昧にぼかしており、表現の水準での精妙さを保持している。だが、カタレプシー的な徴候が薄れていることも念頭に置くと、こうした洗練は画家の目指すものが神経症、あるいは安易に現代的と形容されるような戯画の生産にはないということがうかがえるだろう。植物の描写はヴァルール(色価)に忠実でありつつも、ペインティングナイフの痕跡を隠そうとしない。それは《木漏れ日》(2017)において人物に影を落とすことなく、光をキャンバスに直接反射させる作為性にも現れている。このように画家の存在をメタ的に暗示する傾向はこれまでは目立たなかった要素であり、今後どのように展開していくのかは注視していくべきポイントではあるが、それについて判断を下すにはまだ材料が足りないようにも思われる。
だが現時点で確かに言えるのは、一連の風景を背景とした作品では、柔らかな太陽光が空間を満たしていることだ。それが独特の再構成を経た身体と出会うことによって、画面は白昼夢のような非現実感を湛えることになり、これまでの両義的な絵画構築を踏まえながらも、日野は新たな局面を切り開くことに成功した。このことは、これまでその異形性において他者的なニュアンスも帯びていた作品内の人物たちについての認識の修正も促すだろう。それはまったく世界から隔絶された存在ではなく、ジョルジョ・アガンベンが言うところの「無縁の存在」のようなストレンジャーとして、私たちが住まう風景のなかにひょっこりと現れる。室内での軟禁から解放された彼らは、見開いた目をこちらに向けながら、自身の存在を開示する。風景はそのことを明快にするために、必然的に選び取られた主題なのだ。