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映像のなかにいる彼ら。北野圭介が見た、「渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展

熊本市現代美術館で4月〜6月にかけて開催されていた、「チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展。岡田利規が発案した〈映像演劇〉は、いまここで起きている事象ではない「映像」を用いて、演劇作品の上演を行う試み。プロジェクション映像で、美術館という展示空間を上演空間へと変容させるというこの新しい形式の演劇について、映画文化、映像文化に関する研究を行う北野圭介がレビューする。

文=北野圭介

The Fiction Over the Curtains 2017–18 4 枚の半透明スクリーンに4 チャンネル・ヴィデオ・リアプロジェクション 撮影=宮井正樹 © chelfitsch Courtesy of precog

「渚・瞼・カーテン チェルフィッチュの〈映像演劇〉」展 イメージの制御、その行方 北野圭介 評

 熊本市現代美術館に足を運んでみた。

 というのも、だ。

 映像、演劇、美術館。

 なにやらつながっているようでもあり、けれども、これまで目にしたことも耳にしたこともない。だからなのだろうか、少なからず不穏さも醸し出している、3つの言葉の並び。主に映像研究に励み、演劇批評や美術批評にも手を出したりしてきた身には、なおさらのこと、その不穏さはあらがいがたい魅惑を放つ。

 我が身が出くわしたのは、予期していたよりはるかに濃密なものだった。3つの言葉が激しく絡み合い、混ざり、旋回する、そんな体験だった。

 来館者が最初に訪れるのはおそらく、展示空間の片隅にある、非常口へと通じるドアの片面に、プロジェクション・マッピングで映し出された、contact Gonzo(以下、ゴンゾ)の塚原悠也だろう。ピナ・バウシュなどが得意とした、偶発的な接触を起点としたダンスを日本人の身体にカスタマイズしたダンサーが、「このドアは、開けちゃいけないので、開けないでください」と語りかけてくる。奇妙に淡白な調子で。平面の映像となったゴンゾが、わたしたちのからだを誘い、そして拒むのだ。相矛盾するフレーズは周到に仕組まれている。

 ゴンゾの映像の身振りは、展覧会への見事な導入となっている。どういうことか。

A Man on the Door 2017–18 非常口にシングルチャンネル・ヴィデオ・プロジェクション 撮影=宮井正樹 © chelfitsch Courtesy of precog

 2010年前後、スマホの画面が、わたしたちの日常へ浸透を始め、いまとなっては、目覚めから就寝までスマホに語りかけ、そして語りかけられるありさまだ。この事態は、一見するよりはるかに深い省察を必要とするだろう。現象学が言うには、人は生まれてから死ぬまで、自分の身体をまるごと、直接見ることはない。己の顔さえだ。わたしはわたしの顔を見るのに、水面であれ鏡であれ、似顔絵であれスナップショットであれ、映像メディアに頼らざるをえないのだ。外部にあるはずの映像は、かくも深く人間の内側に入り込んでいる。では、モニター画面と身体を、年がら年中、朝から晩まで、貼り付けているわたしたちは、一体どのようなわたしたちなのか。チェルフィッチュの〈映像演劇〉は、こうしたわたしたちのいまを、抜き差しならぬ強度で穿つだろう。あと2つの作品だけ触れておく。

 今日、モニター画面に語りかけ、また語りかけられている世界。それはまるでアニミズムが回帰したかのごとくだと、今日、先鋭的な哲学者が世界中でつぶやいている。〈映像演劇〉の作品のひとつは、そんなつぶやきを搦め手で弄ぶだろう。白いテーブルの隅にちょこんと並んだ2台のスマホ。テーブル手前には劇場で見かける仕切りの紐が張られていて、そこはまさに舞台であるかのようだ。やがて、2つのモニターに2人の役者が浮かび上がり、科白のやりとりをはじめる。寸劇か。でも、幕間のようなコメントもしている。まもなく、わたしたちの目は彷徨いはじめる。これは、映し出された役者がしている芝居なのか。はたまた、2つの画面のじゃれあいなのか。いや、もしかすると、デバイス同士のコミュニケーションなのか。わたしのアニミスティックな欲望は、漂い迷いはじめる。

Standing on the Stage 2017-18 白いスマートフォン(2台1組) 撮影=宮井正樹 © chelfitsch Courtesy of precog

 これとサイズのうえで大きくコントラストを生んでいる作品もある。軽く100インチを超えると思われる大きな、半透明のカーテンのような4つのスクリーンが横一列に並べられている。そこに、薄暗い背景とともに、ときに輪郭のぼやけた光の塊が、ときに鮮明に縁取られた人物像が浮かび上がる。「こっちからは、あなたたちが見えません。あなたたちは、こっちには入ってこられません」と遮蔽を語る若い女がいる。「服をもらえないですか。いま着てるその服でいいです」と呼びかける若い男がいる。彼と彼女は、少し語り、座りこみ、沈黙し、歩きだし、そして消えていく。

The Fiction Over the Curtains 2017-18  4枚の半透明スクリーンに4チャンネル・ヴィデオ・リアプロジェクション 撮影=宮井正樹 © chelfitsch courtesy of precog

 急いで付け加えておけば、カーテンとみなしたほうがいいスクリーンは、立体物としてそこにある。そこには、天井から、そして裏側のフロアにも、ほのかな橙色の光のライトが設置されていて、外側から映像の内側へと淡い光の影を這わせている。4つのカーテンの前にはそれぞれ小さなスピーカーも置かれていて、おのおの調整された音は立体的なサウンドスケープをつくりあげている。映像となった役者たちは、カーテンに映し出された映像の平面から、接触を求める言葉と、接触を諦める言葉を発しかけてくるわけだ。世界は、平面のなかに押し込められ、圧縮されたかのようだ。世界は、平面からはみ出し、膨張していくようだ。

 ここはどこだ? 映像の中にいるのは、彼らなのか。それとも、わたしたちなのか。

 先に触れたように、あたかもモニター画面に張り付いて生活を送っているのは、わたしたち自身であるからだ。

 と、映像のなかのひとりの女性が唐突に独り言を言う。「わたしたちがしている訓練は、想像力を制御する訓練です」。言うまでもなく、想像力とは、像(イメージ)を想い浮かべる力のことだ。英語も仏語も変わるところはない。 わたしたちの日常はいま、眩暈がする速度で映像が制御をはじめている。そんな日常へ、心のなかで出来する映像が己を制御し、じっと向き合いはじめているということなのか。映像、演劇、美術館の境界を突き抜け、チェルフィッチュの企ては、激しくわたしたちを揺さぶる。

編集部

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